episode8

 ……あの時のことは、忘れたくても忘れることができない。


 月が明かりを灯し、涼しさが暑さに勝る夏の夜、ぼくは興水こしみず老人の展覧会に出展する絵を、ブルーシートを敷いた部屋で描いていた。もう何年も使っている、汚れたスレートグレーのエプロンをかけて、右手に年季の入った絵筆、左手にはプラスチック製の安っぽいパレットを持っていた。その上に、短期留学中に買った、ある程度貴重な絵具を出して、大量に使っていた。

 薄いカーテンが夜風に煽られるさまが、その時のぼくには鬱陶しかった。けれど、わざわざカーテンをまとめる行為も時間も無駄だと思ってしまい、風の行きたいままに暴れるカーテンを、そのままにしていた。

 実際にどうだったかは思い出したくもないけれど、描いていた作品の完成が近づいてきた気になっていて、腕を上げてラストスパートをかけようとしていたときだった。


「……っああああああああああああああああああああッ‼ああああああああああああああああ‼」

 幼さが残る若い男の、聞いたこともない絶叫が、宵闇を塗りつぶすように響いた。


 窓の外から聞こえてきたその声に、ぼくは浸っていた絵の世界から、力強く現実に引き戻された。暗かった視界に光が鋭く差し込まれ、今までの世界が光に傷つけられ、抉られ、裂かれた。

 そこは、葉鳥から借りている自分の部屋だった。ブルーシートが広範囲に敷かれて、それ以外には簡易ベッドと放り投げたリュックサックがあるだけの、自分の部屋。

 聞き慣れない男の絶叫に呆然としていた自分の、瞳の前にあったのは、一枚のキャンバスだった。今さっきまで、ぼくが、一心不乱に描き続けていたものだ。

「…………!?」

 眼の前の絵に、とてつもない恐怖を、覚えた。

 まるで、全体に鮮血が飛び散ったかのような赤、世に存在するもの全てが焦げたような黒、不気味な魂のおぞましさを滲ませたような青。それらが、元は白かったはずのキャンバスに我が物顔で付着していた。

 何を伝えたいのか分からない。何を描きたかったのかも分からない。

 幼い頃から知人に『死神』と呼ばれ続けたぼくの目に映ったのは、絵とも呼べない、ただ汚されたキャンバスだった。

「……っ‼」

 直ぐに目を逸らす。

 反射的に、持っていたパレットと筆を落とす。水を入れていたバケツに足を引っ掛け、そのまま倒してしまった。体から一気に力が抜けてしまい、濡れたブルーシートの上にそのまま尻餅をついた。そして、体が床に落ちた直後、また自分の水晶体に、あのキャンバスが映る。

「あ……っ、がぁっ……‼」

 恐怖で締め付けられた喉に酸素を落とし込み、荒い呼吸をなんとか整えようとするけれど、それは息苦しさを強めるだけだった。自分のキャンバスの不気味な不器用さに吐き気がするほどで、身体が何度も何度も、此処から逃げろとでも言いたげに震えていた。

「おい、今なんかすげー音したけど大丈夫だいじょぶ……花束はなたばっ⁉」

 職場から帰ってきていたらしいとりが、ワイシャツ姿のまま血相を変えてブルーシートを越え、ぼくの背にそっと手を置いた。ぼくを優しく抑える葉鳥の、その手の温かさに、激しく咳き込みながらもぼくは悟った。


 ぼくはもう、絵を描くことはできない、と。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る