episode7

 とりから借りた一室には、常にブルーシートを敷いて、絵を描くためのエリアを確保した。窓に近い部屋で、太陽光を感じながら、絵を描くことに集中することが出来た。

 仕事をしながら、絵を描き、家事をする(想像以上に葉鳥の家事スキルが壊滅的だった)。その日々が、とても充実していた。

 何度か、ぼくの描いた絵が賞に選ばれたりカタログに載ったりと、少しずつだけれど着実に、自分の絵が力になっていることを確認することが出来た。それが、何より楽しかった。

 時折、石口せきぐちさんやざきから連絡が来た。時間に余裕があるときは彼らと会い、会話に花を咲かせていた。

 特に石口さんは、ぼくと積極的にタッチを取ろうとした。あのプロジェクトの会場の近くに住んでいる彼女とは、互いに会うのも骨が折れるはずだが、ぼくも彼女も、相手に会いに行く時間はなんの苦にもならなかった。

 他愛のない話を続けるだけの時間。それが、ぼくの幸せだった。


「展覧会に、出展?」

「そう。どーよ、興味ない?」

 二十六歳になったぼくは、道端で偶然会った亜崎に、そんな話を持ち掛けられた。ぼくの横には、待ち合わせて一緒に買い物をしていた石口さんも座っている。

「展覧会って、先生主催の……?」

「っはは、ちげぇよ!興水弦師匠のだよ。もう先は長くないから、今のうちにってよ。」

「そうか、興水先生……。」

 興水こしみずげん。興水老人の名前に、石口さんが口元を抑えて悲しそうに瞳を揺らした。

 一年前のニュースにて、興水老人が肺癌に侵されていることを知った。彼は喫煙者であったらしく、テレビのコメントでは、自業自得だと笑っていた。

「その中で幾つか、オレの作品を出していいって言われてな。そして、お前にも。一つだけでもいいから、飯縄いいづな花束はなたばの絵も出展したいと。……どうだ、受けてくれるか?」

「受けるのは……構いませんが。亜崎先生は良いんですか?」

 不安を覚えるほどに、亜崎はこの一年で一気に老けていた。まだ三十九か四十の筈だが、そうは見えなかった。興水老人自分の師匠のことがあり、憂き身をやつしているのだろう。

 亜崎の笑みは、昔の夜空に開花した打ち上げ花火のようなそれと印象が打って変わって、火を点した線香花火のような、弱った笑みになっていた。

「師匠が良いって言うなら、良いんだよ。」

 弱った人間の、乾いた笑い方。亜崎すらこれほどに歪ませるとは、人間の精神状態とは、かなり恐ろしいものである。

「なるほど。……つまり興水先生は、飯縄君を認めてくださっている、ということですね。」

 石口さんは、納得したような、自分を納得させるような声で、静かに頷いた。

「……まあ、なんだ。お前がやりたいようにやってくれ。そして、絵ができたら、オレに連絡してくれよ。」

 亜崎の瞳の光が、もう見える余裕もないほど消えかかっていた。けれど、『お前は描き続けるだろ?』と、愛を持って小馬鹿にするような声の強さだけは、健在だった。

「……はい。」

 ぼくは亜崎に、石口さんに、そして、この場にはいない興水老人に、しっかりと頷いた。


「飯縄君。」

「はい?」

 帰りに亜崎と別れ、隣の県へと戻る石口さんと、最寄りの駅まで一緒に歩いた。滑らかな髪が、風にされるがままになびいている。

「……あたし、少し、怖くなったわ。」

 無理やり口の動きに当てはめたような、石口さんの不自然な声が、静かに言った。

「興水先生が亡くなってしまう可能性がですか?」

「違う。」

 素直に思いついた回答案に、彼女が間髪を入れずノーを返す。

「……貴方が、消えてしまう気がした。」

 消えてしまう、とはどういうことなのだろう。貴女の目の前から消える、ということなら、それはまるで世迷い言だ。けれど、からかっているようには見えない、痛々しく歪められた表情で、本気なのだと無言で察する。

「飯縄君、貴方は……あたしとこれからも会ってくれるでしょう?勝手に消えてしまわないで。」

 ぼくは黙って、なびく彼女の髪を捕まえて、耳にかける。彼女の瞳が一瞬、うっとりするように穏やかに揺れる。

 __興水老人。どうやら貴方の存在は、想像以上に大勢の人に影響を与えているらしい。今まさに、直接指導をしたことがないはずのアーティストが、不安に揺られているのだから。

「……消えませんよ。」

 ぼくは夕焼けに染まった路地で、今持てる最大の愛を込めて、彼女に言った。夏の夕暮れが、理性も本能も、全てを溶かしてしまいそうになるほど暑いものだとは思っていなかった。

 両者の無言が、そっと何かを許容する。人がいない夕暮れで、何の正体も分からない両者からの引力で、彼女がぼくの胸に身を委ね、ぼくもそれを受け入れた。


 しかし、このときに放った言葉は、すぐに嘘になる。

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