episode9
携帯電話が鳴った。名前を見ると『
機械的で冷たく、ぼくを責め続けるようなコール音が部屋に響く。三回のコールの後、スピーカーをオンにして、座っていた自分の横に携帯電話を置いた。
「はい、
ぼくの目の前は暗い。電気をつけていない自分の部屋のベッドで膝を抱えている。もう、床に敷いていたブルーシートも、敷いている理由がなくなったから、剥がしてしまった。
あの夜の出来事は、自分の精神をかなり力強く破いたようだった。実際、何かをする気力もなく、こうして部屋に籠もっているのだから。
〈お、今平気か?前に頼んでた展覧会用の絵って、もう出来上がってたりする?完成したら、今週中にオレに渡してほしいんだけど……。〉
「無理です。」
〈え?〉
亜崎の呑気な声に、ぼくは直ぐに返した。自分の声が思った以上に沈んでいて、軽く流すつもりだったのに、それは到底できそうにないと分かった。自覚していなかったが、嘘を吐くのは得意ではないのかもしれない。
亜崎によって発せられた、ぼくの声への返答が、ひどく素っ頓狂なものだった。目を丸くして驚く様子が、脳裏に易々と浮かぶ。
〈無理って……、忙しいのか?でも一か月の期間もあったんだから、作業の早いお前のことだし、粗方できてると思ったんだけど……。〉
そりゃそうだ。疑問に思うだろう。大学在学中は、遅くとも提出期限の三日前には、課題をすべて終わらせていたのだから。仕事でだってそのスタイルを貫いているし、そうしようという意思だって、変わっていない。
……でも、描けなかった。新しいキャンバスを用意して、筆を持ってみるのだけれど、どうしてもあの絵が思い出されて、描けずに断念してしまった。
「そうでは、なくて。先生……。」
〈……?〉
亜崎が、ぼくの話を聞こうと耳を傾けてくれているのが分かる。それが、今の自分には痛かった。
「絵を、描けなくなった……っ!筆を、執れなくなったんです……!」
自分の声が、想像以上に悲痛な色を示した。その声に、亜崎が息を呑む気配がした。ぼくも自分の声に驚いて、自分の喉元に手を当てる。
〈んだよ、それ。親が原因か?そうじゃないなら、何をふざけたことぬかして……!〉
「ごめんなさい!っでも、そうじゃなくて……!」
すぐさま文字の謝罪を伝える。けれど、亜崎の声に、きっと怒りなんてなかった。ただ、信じられないという困惑の声だった。
責めてくれればよかったのに。もう立ち上がれない、立ち上がる気力も無くなるくらいに、責め立ててくれればよかったのに。
ぼくは、まともに舌が回らない状態のまま、亜崎に全てを話した。亜崎は相槌を打つことをせず、静かに話を聞いていた。
〈……訳わかんねー。〉
全てを話し終えて聞いた言葉は、それだった。今度のそれは、人の受け取り方で、怒りにも呆れにも聞こえるであろう言い方で。
覚悟が足りないと怒鳴られるのも、お前は駄目だと見限られるのも、想定内だ。そんな対応が来ても、大して驚きはしない。
〈自分の絵に、恐怖心って……。わっかんねー。〉
そこから、亜崎は黙った。およそ一分くらいの沈黙が、相手の顔も動作も見えない電話越しだとこんなにも長く感じるのだとは思わなかった。
〈じゃあ、お前、絵は?〉
「展覧会に出せるほどまともな絵は、一つも……。」
〈そうか。〉
一定の強さで、長く溜息を吐かれる。ぼくは、携帯を手に持った。
〈絵を描くのが好きで美大に入って、『美術の恩恵を受けた芸術家』なんて言われたお前が、絵を描けなくなるとは思わなかった。〉
感情の読めない機械的な声に、ぼくは人が誰もいない場所で頷く。
「はい……。」
〈信じられねぇし、信じたくもねぇ。そもそも、まだよく意味がわかってねぇ。〉
「はい。」
〈でも……。〉
そこで、亜崎は電話を持ち替えたようだ。それから、脚を組む音がした。
自分の手が冷えているのは、もう明らかだった。冷房の設定温度は高いのに、ぼくの手は夏であることを忘れるくらいの冷たさだった。
〈……描けなくても別にいい。生きてきた中で、お前は何度も何度も絵を描いてきた。それがあるんだから、これから描けても描けなくても……。〉
暫く口を閉ざしていた亜崎が、声を微かに張った。
〈お前の中には、残ってるだろ?〉
電話の奥の声が、人を慰める響きで、けれど明るい声で、それが、たった一人の
亜崎は、やっぱり亜崎であった。
「……はい。」
片眉を上げて、子どもの様に笑う亜崎が目に浮かぶ。涙に浸る声のまま、ぼくは暗闇の中で頷いた。
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