episode2

「うっひょー!山がでっけぇー!」

 隣の亜崎あざきがうるさい。おおらかな風景が、一人の大人の騒がしさで台無しだ。

 ぼくは、例のプロジェクトに参加するため、電車を乗り継いで県をまたいだ。木で染まった山があり、反対には爽やかに煌めく海がある、自然に囲まれた場所だ。青い山が、悠然と背筋を伸ばして葉をいなす木々を空に捧げているようだ。

「なあなあたばちゃん!やまびこやったら聞こえっかな⁉試してみるか?」

「ガキじゃないんだから、バカやってたら山頂から落としますよ、先生?」

「束ちゃんこわーい!こうちゃん泣いちゃうよ……?」

「ご自由にどうぞ。ぼくは構いませんので。」

 教授と生徒の会話とは思えないほどにレベルが低い。この事実に頭を抱えながら、ぼくはログハウスの前で柔らかく微笑む老人を一瞥した。

「……はじめまして、興水こしみず先生。亜崎先生の紹介で来ました、飯縄いいづなです。」

 老人に向かって礼をする。ぼくに向かい、老人もゆっくりと頭を下げる。

 亜崎の師匠、興水こしみずげん。儚さを人生のテーマに掲げ、パステルの世界観を描き続けた、世界的にも有名なアーティストだ。

 まさかこの亜崎が、かの有名な興水老人に師事していたとは……。

「亜崎君から聞いているよ。君が彼の教え子の中で一番の実力者だと、彼も誇らしげに話してくれた。楽しみに待っていたんだ。」

「いいえ、ぼくの関心を悟って、声を掛けて下さっただけですよ。」

 興水老人は、細めていた目を見開き、それから柔らかいけれどもしっかりと、命の重みを感じさせる声で笑った。

「亜崎君は照れ屋なままだねぇ。あの子は君の作品にいたく惚れ込んで、参加が嫌だと言われても、君だけは連れてこようとしていたんだよ。恐らく、君の興味なんて、知ったこっちゃなかったんだろうよ。」

 楽しそうに笑う興水老人に向かって、ぼくの隣にいた亜崎が慌てる。身振りを大きくして、必死に声を張った。

「ちょいっ、師匠⁉やめて下さいよ、せっかくここまで連れてきたのに、飯縄が帰っちまうじゃないですか‼」

 ……一瞬でも見透かされたと思った以前の自分の心配を、杞憂だからやめろと未来のぼくが言いたい。

「あの、あのねっ、たばちゃんねっ、違うから!いや、あの、本当よ?高い技術と才能に惹きつけられたのは本当なのよ?でもさ、ね、お前の心情ガン無視だったわけじゃなくてね、ねぇ、飯縄ぁ、そんな怖い顔しないでくれよぉ!」

 ……怖い顔なんてしていない。元から死神顔なだけだ。

 わざとらしく、大きな溜息を吐いてやる。ぼくに向かって怖がる亜崎が、なんだか面白かった。

「亜崎先生。帰りませんよ。」

 ぼくは、亜崎に向かって、悪戯をするように笑って見せた。

 ……亜崎がぼくの気持ちを考えていなかったのだとしても、このプロジェクトに興味があるのは紛れもない事実だし、もう県を超えて此処に来たのだ。何もせずに帰る理由なんて、何処にもない。

 曲がりなりにも、不器用でも、しっかりと流れているこのアーティストの血が、腕を動かせと騒ぐのだから。

 何もせずに帰る理由なんて、何処にもない。


○○○○○○○○○○○○○


 プロジェクトには、ざっと二十人は超える美大生や画家が集まっていた。改めて、世界の美術の常識を凌駕した興水弦の力を思い知った。

 二人ずつで別れ、細かい部分から作り進めていく。てっきり亜崎と共にやるものだと思っていたけれど、意外にも亜崎は知り合いを見つけて、そっちに行ってしまったので、会ったこともない人と共同作業をする流れになった。

「……白って、まだ足りますか?石口せきぐちさん。」

 ぼくは、共同で作業をすることになった女性に声をかけた。

 石口せきぐち水咲みさきさん。明るい茶に染めた髪を一つに括り、活発そうなイメージがある。先程、この辺りに住んでいると言っていた。

「あーっとね、確か向こうに……あった!これ使っていいと思うよ!」

 よく通るハイトーンボイスが、さも愉快そうに笑った。彼女が口角を上げる度、薄く透けてしまいそうなほどに透明感のある頬が、サッとあかを抱く。なんだか、人の安全基地にされていそうな人だ。

「ねね、飯縄君?って、今いくつ?」

 石口さんが、水で絵具を溶きつつ尋ねた。

「大学四年の、二十二です。」

「おっ、じゃあ、大学卒業間近だし、今は結構忙しいんじゃない?因みに、あたしは二十三だよ!色々質問していいよ〜!」

 一つ上、か。先程抱いた印象は、それに起因するのかもしれない。

「石口さ、先輩、は……。」

「呼び方は何でもいいよ〜さんでもちゃんでも先輩でも、呼び捨てだって構わないよ!」

 流石に呼び捨ては無理だ。

「石口さんは、どうして今回、このプロジェクトに参加したんですか?」

 彼女は楽しそうに口笛を吹くと、「そーだねー……」と、溶けてしまいそうな声で笑った。

「やりたかったから、かな?」

 意外と単純だった。

「私、去年まで地元の美大にいてさ、卒業してグラフィック関連の職に就いたんだけど、大学でグラフィックアートやってるうちに油絵の方に興味が出ちゃって、仕事も楽しいんだけど、なんか違う気もするなーって思っちゃったの。」

 絵具を数えながら、また楽しそうに笑う。

「どんどん考えてるうちに、今回の水彩画のプロジェクトの話を聞いてさ、色々やってみよーって。あんまり、分野にこだわりもなかったからね。」

 そこまで笑顔で言い切ったのち、彼女は何かに気づいたように目を見開くと、遠慮がちにぼくの目を見た。

「……今の、君にとっては、少し腹の立つ答えだったかな?」

「いや……。」

 顔色をうかがうような目をする石口さんに、ぼくは横に首を振った。

 どんなに綺麗事を吐いても、結局は興味の有無で、物事を続けられるかは変わる。興味があるか、やる気があるか、それが得意か。その三つは、物事の判断の上で重要視すべき点だと思っている。

「大切だと思いますよ、その感じ方。ぼくも、そうやって決めてきたものは幾つもあります。そして、今、生きています。」

 人生は、不安定ですぐに壊れるものだ。だから、『生きててよかった』なんて言葉を思い浮かべられたら、それは人生の大勝利だ。

 そして、そう思えるのか否かは、『興味』から繋がる選択で左右されるのだから。

「……そっか。大切か。」

 石口さんは、何処か満足そうに頷く。それから、自分ができることを大切に抱きしめるように、静かに絵を描き続けた。

 彼女の描いた白鳥は何処か歪で、けれど、人間らしい温かさがあった。

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