episode6
プロジェクト終了から一週間後、ぼくは大学を卒業した。
何の気なしに桜を眺めていると、白いネクタイを結んだ亜崎に声を掛けられた。
「
最後らしい、けれど亜崎らしくはない真剣な瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。普段は滅多に見ないスーツ姿が、否が応でも『最後』らしさを突き付けてくる。
この人でも、別れに涙を流すことがあるのかと、ぼくも真剣な瞳を返した。
呆れた言動が多かった教授だが、軽すぎず重すぎず、丁度良い温度で接してくれた人。自分の周りの大人でも、亜崎は珍しい人間だった。
自分の進路がこれでよかったのかという疑心暗鬼に駆られた時、亜崎が何の気なしに言ったであろう一言が、ぼくの救いになっていた。彼の狂い咲きの明るさに、思わず笑ってしまったことだってあった。
亜崎の目を見る。少し驚いたように「ん」と声を零した後、亜崎は今まで見たことがない類の笑みを浮かべた。普段とは様子が違う、一歩引いたところから余裕を浮かべるような笑い方で。
「亜崎先生も、お元気で。」
ぼくは小さく頷いたあと、そう言ってから、深く頭を下げた。
○○○○○○○○○○○○
就職先は、決まっている。インテリアデザインの会社から内々定をもらっているので、そのあたりは心配をしていない。
問題は、住居だ。
比較的何も考えていなかったので、四月になったら寮を出ないといけないのだが、行く先が見つかっていない。実家に戻ることは絶対にしたくないので、事故物件でもいいから、家を探さなければならなかった。
「さて、どうするか……。」
1K、2Kを中心に、物件のカタログを眺めてみる。お金は許容範囲だが、欲を言えば作業部屋が欲しい。仕事が軌道に乗るまでは、しばらく我慢するしかないのかもしれないが、部屋を一つ使って、家で水彩画を描きたい。
しかし、2Kで探すと職場から遠い家しか出てこない。なかなか好都合の家がないのだ。
「仕方ないから、一部屋か……。」
一度、熱を持った頭を冷ますために買い物をしようと、不動産会社のカタログから目を離し、寮を出た。
スーパーでカゴを片手にふらふらと歩いてから、エコバッグを肩に掛けつつコーヒーを飲む。買い物だけのつもりだったのだが、したくないことを後回しにするように、寮に帰る気が湧かない。店先に貼られた賃貸のチラシを眺めては目を逸らしている。
空を見上げると、葡萄色の空に星がちらちらと瞬いて出てきた。ジャケットを着て出てきたのだが、春先の暮れはやはり冷える。
「……
いい加減、そろそろ帰ろうかと思っていたところで、どこか懐かしい声に呼び止められた。ちらりと横を見て、その声の主の姿を目に留める。
「
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
穏やかな笑みをたたえた、黒縁眼鏡が良く似合うインテリジェンスな雰囲気を持つ男。今でこそキラキラオーラが眩しいインテリイケメンと化しているが、昔は常に何かに怯えていた記憶がある。
「葉鳥は、仕事終わり?」
「ああ。なあ、今暇か?せっかく会えたんだし、少し駄弁ろうぜ。」
葉鳥は、かすかに子供の頃の目の光を宿し、ぼくに笑いかけてくる。ぼくも、それに頷いた。
「お前、引っ越すの?賃貸住宅の広告、ずっと見てただろ?」
適当に入ったカフェで、ウィンナーコーヒーに口を付けつつ、葉鳥が尋ねた。ノートパソコンを広げながら脚を組むさまは、葉鳥がやるとそれだけで絵になる。
「……大学卒業だから、そろそろ探さないと。実家には戻りたくないから。」
「あーね。……飯縄だから、ね。」
葉鳥も、昔の記憶を脳裏に浮かべたのか、苦い顔をしながら、微かに震える手でカップを置いた。
「あ、よかったらオレのところにでも来るか?」
「……え、葉鳥の家?」
葉鳥が満面の笑みで、いいアイディア思いついた、と、手の上に握りこぶしをポンとおいて頷く。
「そう。……いい年になったら恋人とかできるかなーと思って結構広い家借りたんだけどさ、それがまぁできなくて、結構家賃払うのがギリだから。半分だけ出してくれたら、空いてる部屋があるから、そこは自由にしてくれていいし、これからオレに恋人が出来る可能性は微塵もないからさ。」
……別に可能性は十分にあると思うが、どうして、恋人ができる前提で家を借りているのだろう。まず、そこから突っ込んで構わないだろうか。
「でも、いいの?お邪魔して。」
今まで一人暮らしをしていたのに、そんなあっさりと決めてしまっていいのだろうか。けれど、眼鏡の奥の瞳は、拒絶の色を一切見せておらず、寧ろ歓迎の輝きが宿っていた。
「……お前には何度も助けられてきたからな。ヒーローに恩を返せるなら、全然。っていうか、最初にオレに相談しろよ。家族よりも家族みてーなもんなんだし。」
「助けたことなんてあったっけ……?」
「ははっ、自覚がないならそれでもいいよ。あ、申請に必要な書類は用意しろよ。住民票と保険証、それと身分証明書のコピーな。収入証明とかも。」
葉鳥は、明るく笑った。その表情に、ぼくの顔も次第に明るくなっていったのが分かった。
「じゃあ、ありがとう。甘えさせてもらいたい。」
○○○○○○○○○○○○○
「私物少ないなー、束。手提げ一つに収まるのか。」
「画材と服しかないからね。着るものにこだわりないし。」
引っ越し完了。想像以上に広い部屋に通され、ぼくはたじろいだ。
「まあ男二人だし、気兼ねする必要もないしな。これからは、お前のしたいようにすると良い。何かあったら、オレに言ってくれれば構わないから。」
葉鳥の優しさが身に染みる。母親からのあの電話の後だから、余計に。
「本当にありがとう。これからよろしく。」
「ま、元々近所に住んでたわけだし、昔に戻った気もするけどな。なんとなく懐かしいよ。」
葉鳥は、そう言って朗らかに笑った。
「……どうなってるの、台所。プラスチックに汚された海岸みたいになってるんだけど。」
「いやいやいや、二十代前半の男一人暮らしなんてこんなもんだって!おい、花束、全力で引くなよ‼」
家のキッチンは、ものの見事に荒れていた。調理器具は出しっぱなしで、あちらこちらに油や小麦粉などが跳ねている。
「それにしても、ひどい。そもそも葉鳥って、料理できたっけ?」
「……三日で諦めました。」
眉目秀麗なインテリイケメンの弱点は家事だったか。哀愁漂う
「とにかく、ちょっと待って。」
まずは、食事を作る前に、食事を作れる環境を整えなくてはならない。
……ざっと三十分後。台所は見事に息を吹き返し、コンロの火も心なしか強く燃え上がっている。
「……料理、
「そう?」
つい最近、似たような言葉を聞いた気がする。
「いやー、いいお嫁さんになるわ。ってか、本当にすごい。チャーハンが芸術品。写真撮っていい?」
「息子の初めての手料理に喜ぶパパじゃないんだから。バカやってないで、手持ち無沙汰ならさっさと皿運んで。」
本当に、大人しかった昔とは打って変わって、随分と葉鳥は感情豊かになったようだ。とても楽しそうに皿を運ぶ葉鳥を見て、葉鳥は変われたんだなと安心する。
「……よっしゃ!とりあえず乾杯しよう。束の大学卒業も兼ねて!」
「はいはい。」
向かい合って座る。水を注いだ僕と葉鳥のグラスが、壊れそうに細い音を立ててぶつかる。
「乾杯!」
微笑む葉鳥の後ろに、ブルーキュラソーのボトルが置かれていた。その青が、窓から見える空の色とよく似ていた。
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