episode14

 元々、ぼくの出勤時間の方が遅かったはずだが、とりと同じ時間に家を出るようになった。そのため、家でテレビをつけている時間も短くなった。

 だから、あのニュースが流れてそれを見ることが出来たのは、偶然だったのだろう。


「あ……。」

 興水こしみず老人が亡くなったというニュースだった。携帯の着信がなり、ざきからおよそ九か月ぶりにメールが届いた。

『師匠が死んだ。葬儀には参列するか?オレは行く。』

 迷った。ぼくは興水老人にとって、教え子の教え子という遠い立場だし、会ったことも一度しかない。けれど、ぼくの絵を自分を最後の展覧会に出展してもいいと言ってくれたことがある。

 ……まあ、結局、ぼくはその絵を完成させることはできなかったが。

『やめておきます。お墓の場所だけ教えてください。落ち着いたら行きます。何か入用の物があったら、また連絡ください。』

 亜崎からは『必要なもんはない。分かった。お前が死んでなくてよかった。』という、返答に困る返信が届いたので『心配かけてすみません。生きてます。』と返してやった。

興水弦こしみずげん……聞いたことあんな。何してた人だっけ?」

 葉鳥がトーストを齧りながら言った。相変わらず、砂糖とミルクをうんざりするくらい放り投げた甘いコーヒーで、インテリイケメンの眼鏡が真っ白に曇っている。この間抜け面、初見なら吹き出してしまうかもしれない。初見でなくても、気が抜けている時間であれば、笑っていただろう。

「画家だよ。ぼくの恩師の師匠。」

 気が落ちるからテレビの音量を下げて、ぼくもパンをトースターに入れた。興水老人の最期の言葉は『昔好きだったものをずっと、終焉でも好きでいられて、私は幸せでしたよ』だったそうだ。

 昔好きだったことを今でも。ぼくは、それが出来ていない。

 絵を描くことが出来なくなった。無自覚に好意を抱いていた人も、消さなければならなくなった。

 興水老人のことを、恨めしいとは思わない。ただ、好きなものをずっと好きで居続けられた彼を、羨ましいとは思った。


 ……ふと、さきさんと出かけたある日のことを思い出した。

 その日に歩いていたのは彼女の地元の周辺で、水咲さんの大学時代の友人に会ったのだ。そしてそこには、水咲さんの元彼と名乗る男も一人いた。

 かなり愛が重めの人だったらしく、水咲さん自身から別れを切り出したそうだが、元彼本人は納得していない状態での別れだったそうで、ぼくの顔を見る元彼の目は鋭かった。

石口せきぐちお前、俺のことを捨てたせいで、不気味な男にストーカーされてるぞ。ついに幽霊にでも取り憑かれたのか?俺のところに戻って来いよ。そしたら、その後ろの奴は追い払ってやるから。自分の身も守れないで啖呵切りやがってよ。なぁ?』

『彼に失礼でしょ⁉私の大事な人なの。大体、あたしが取り憑かれて後悔してるのは、飯縄いいづな君じゃなくて貴方よ!』

 幽霊扱いされるのには慣れたものだが、今度はストーカーかと、少しショックを受けた記憶がある。けれど、恐怖のせいか、肩を震わせていた水咲さんを見て、黙っているのは良くないと判断した。

『彼女、怯えていますよ。大声で怒鳴るのはやめて下さい。公道ですから。』

『は?ストーカーのくせして出てくんなよ。自分の立場分かってんのかよ?』

 ドスを利かせた声で、ぼくに突っかかってくる元彼。自分の立場を分かっているのか、なんて、そっくりそのまま貴方に返したい。

『……愛していると思い込む相手に、恐怖心を植え付けることが、『立場を理解する』ということなんでしょうか?』

 呟くように言ったぼくに、元彼は瞬時に顔を赤く染め上げた。それから影の奥より、リングを嵌めた右手にうねりをつけた。

『この……黙って聞いてりゃナメた口ききやがってっ‼どれもこれも、お前のせいだぞ、石口‼』

 水咲さんが、自分彼女に殴りかかろうとする元彼から目を逸らした。泣きそうな顔を一瞥し、ぼくは片腕でそれを叩き落として流す。あまり騒ぎにはしたくなかったが、向こうから既に手を出されているし証人水咲さんは居る、と、ぼくは片脚を振り上げ、頭を蹴ってしまう寸前で留めた。

 目の前に脚を投げ出され、元彼は相当怖気づいたらしい。後方に避けようとして、そのまま尻餅をついた。顔面蒼白で、唇は情けないほどに震えている。

 幼い頃、姉の影響でキックボクシングをやっていたので、これくらいは造作もない。……本来、素人に技を掛けてはいけないのだけれど、これは正当防衛とさせてもらいたい。

 元彼に殴られることを覚悟していた水咲さんは、驚いたようにぼくを見上げている。元彼はすっかり怯んだようで、情けない声を上げて逃げていった。

『あ……、りがとう……。』

 潤んだ瞳の水咲さんに、ぼくはフッと笑みを見せる。

『やっちゃいましたけど、追い返してよかったんですか?寄り戻したりとか……って、それはやめた方が良さそうですね。横にいても、危険なだけですから。水咲さんの横にいるべきは、貴女を守ってくれる人の方がいいです。』

『う、うん……。そうね……。』

 彼女が落ち着いてから、ぼく達はその場を離れて買い物に向かった。元彼の行方は何も知らないけれど、帰りに駅まで送ったあと、彼女がその日に会うことは無かったらしい。


 ……あれは、どうなるのだろう。あの元彼は、ちゃんと彼女を愛していたのだろうか。好きなものをずっと好きで居られても、それは人を凶暴にすることしかしないのなら、それは危険なだけだ。

 でも、ぼくは?そもそも、凶暴になる前に、一つのことを好きだと思えているのか?

 絵を描けなくなった。その上、水咲さんへの思いを消す以外の方法を考えられなくなった。

 一つの物を、一人の人を、ずっと好きでいられることなんて、この世に一つとてない、最大で最小の奇跡なのかもしれない。

 改めて、興水老人は偉大だったのだなと理解して、ぼくは彼に、自宅からそっと黙禱を捧げた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る