episode15

「あ、飯縄いいづな先生。一つ言い忘れてました。『美術界の寵児』の話をしないと。」

 飯縄先生、という呼ばれ方がむず痒い。しかし、それ以上に気を引いたのは、その不思議な呼称だった。

「美……なに?」

「『美術界の寵児』。飯縄先生に担当していただく生徒です。」

 これは、相当に御大層な渾名をつけられたものだ。ぼくの『美術の恩恵を受けた芸術家』と、いい勝負かもしれない。

「どういうことですか?」

「美術の才能に溢れた生徒が居るんですよ。作品を一目見たらわかります。美術教師の間では共通認識なんです。」

 そんな生徒が本当にいるのだろうか。まだ、小中学生の子供だろうに。変に周りが期待したら、それこそ潰されていくに違いない。

「それで、その子にはどう対応すればいいでしょうか?」

「別に、何も。他の生徒もいますからね、特別扱いはしないで、まわりと変わらず接してあげてください。ただ……。」

 そこで、高等部担当の美術教師が言葉を留めた。「なんですか?」と聞くと、やっとその教師がにんまり笑いながら口を開いた。

「貴方がその子に才を見出したら、サポートしてあげてください。いやぁ、まさか『若手画家・飯縄花束いいづなはなたば』が直々にあの子の作品を見て下さるとは……!」

 画家、という今の自分に似合わない称号粉飾を反芻した。

 最後に絵を描いたのは九か月前。それも、もう捨ててしまったあの悍ましい絵が最後だ。

 絵を描くことに情熱を費やしていた頃は、自分が絵を描かないなんて信じられないと思っていたけれど、絵を描かなくても、人生は案外何とかなるものらしい。昔にとってはどこか他人事だった事実が、今は自分を囲っているのだ。

 本物の画家は、誰なのだろう。ざき興水こしみず老人?それとも、石口せきぐちさんだろうか?

 分からない。けれど、自分ではないのは確かだ。

『美術界の寵児』。その子が仮に本物の画家なのだとしたら、その子は自分その子をどう思うのだろう。自分は画家だと、そう言い切るのだろうか。

「……その生徒の学年とクラス、名前は?」

「絵を見たらわかりますよ。別格ですから。」

 別格、か。その生徒は、美術教師陣から相当持ち上げられているんだろうな。

 楽しそうに笑う美術教師を尻目に、新人の美術教師は自分の手を固く握りしめた。


○○○○○○○○○○○○○


 家に帰ってきたが、特にやることがない。取り敢えず、家の掃除をした。

 夕飯の準備も洗濯もすべて終わらせてしまい、いよいよ暇になっても、葉鳥は帰ってこない。仕方がないので、今まで絵に充てていた時間を、音楽を聴くことに移行させた。

 ブルーキュラソーのボトルが目に入る。家にウォッカはあっただろうか。

 普段は酒を飲まない(好んで飲むことはしない)が、酒には強い。度数が強かろうが構わず、注がれたら飲める。

 数年前、駅近くのバーで上司に渡したブルーラグーンのグラスを唐突に思い出し、それを作ってみようかと思ったが、ウォッカがなかったのでそれはできなかった。今から買いに行く気はないし、そうこうしているうちに葉鳥が帰ってくるだろう。

 そもそも、このボトルは何のために置かれている物なのかさえ、よく知らない。どこか抜けている葉鳥のことだから、ブルーキュラソーのボトルを飾り物か何かと勘違いしているのかもしれない。

 五年前、亜崎が「三月だから」という理由で描いていたアイオライトは、石だった。アイオライトには石言葉として、『道を示す』『誠実』といった意味があるのだと聞いたことがある。確か、カクテルにもそういったものがあったことを思い出し、ブルーラグーンの意味を検索に掛けた。

「……。」

 ブルーラグーンのカクテル言葉は、『誠実な愛』。ロマンチックな言葉だと、何も知らないであろうネットの文字がそう言った。

「作るのはやめにしよう。」

 ウォッカがないので、元から作ることが出来なかったけれど、敢えてそう呟いた。

 此処の“愛”が、どの種類のそれを意味するのかは知らない。けれど、もしもそれが恋愛としての“愛”だとしたら。

 ふと、手放そうと思った記憶の彼女が微笑む。笑顔と呼べる眩しい笑顔を顔に貼り、記憶の中で笑っている。

 余計なことを、考えなければよかった。ぼくは、心底そう思った。

 葉鳥によってドアの鍵が開けられる音が、無音だった部屋に通った。

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