episode16

「出席取ります。……一条君。」

「……はい。」

「佐藤さん。」

「はい。」

 ぼくが担当する授業の七コマ目。初等部六年二組。一人ひとりの名と顔を一致させる。

 まだ、美術教師陣が噂する『美術界の寵児』とやらにはお目にかかれていない気がする。何人か上手いと思った生徒はいたが、それがこの生徒なのかと言われると、『見たら分かる』という持ち上げ方が原因なのか、いまいちピンとこなかった。

 六年二組は、全生徒で九人。男子生徒が四人、女子生徒が五人。他のクラスと、人数はあまり変わらないらしい。

「今日は以上のテーマで自由に水彩画を描き進めてください。今日と、その次の授業で完成させてください。成績に入れますので、期限を守って下さい。それでは、始めてください。」

 別に、『美術界の寵児』を炙り出そうとしているわけでは決してないが、あんなことを言われてしまっては、誰なのかくらいは知りたいと思ってしまう。絵を描かなくなっても、未だぼくにはアーティストの名残があるのだろう。それに対する知識欲は、衰える様子を見せていなかった。

 我ながら滑稽だな。もうきっと、二度と筆を持つことが出来ないくせして。本当に滑稽だ。

 零落れたアーティストは、絵を描き始めた生徒の間を、ふらふらと歩きながら回った。


「……。」

 開始からニ十分近くが経過した頃、ぼくは一人の生徒のキャンバスに目を落としていた。あまりの美しさに、言葉をすべて失っていた。

 その生徒のキャンバスに描かれていたのは、見事なまでの銀世界だった。模写をしても、此処までのリアリティを出すのは中々難しい。白を、紙の色とは明らかに違う白にして、その上から重なる影も、不器用に積もった雪そのものに見えた。

『……ビビった。今、天の遣いでも描いてんのかと思った。』

 ざきに初めて掛けられた言葉を思い出す。心の底から驚いているという声の、その言葉がとても嬉しかったことを、今でもしっかりと覚えている。

 亜崎も、今のぼくと同じことを思っていたのだろうか。一昔前の、歪だったぼくに対して。

 ……生徒だからという前置きは捨て、ただ一人の芸術家として、誰かの加護を受けているようなアーティストとして、自身が触れていきたいと。

 目の前の生徒の手の動きが止まるのを待つ。静かに紙を滑っていた筆が、ようやっと紙との間に隙を作った。

「……のぞみあいさん。」

「はい。」

 目の前の生徒、目の前のアーティストに、声を掛ける。『美術界の寵児』という言葉を、信じるつもりだって初めは無かったのに。

 彼女が、背後に立っていたぼくに振り返った。焦るふうでもなく、溜めるようでも無く、自然な動作、自然な速度で。

 水に浮かべたヴェールの様な長い黒髪、ラピスラズリを嵌め込んだような艶やかな目、自然なあかが映える白い肌。彼女自身も芸術品のようなその少女に、ぼくは一言放った。

「……貴女は、今、どんな雪景色を描いているのでしょう?」

 彼女が生み出した絵の、あまりの美しさに、ぼくは声を掛けずにはいられなかった。

 何度でも、理解する。

 ……ああ、滑稽だ、と。

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