episode5

「結構、あっさり終わりましたね。」

「だねー!でも、楽しかった!」

 一週間の期間が設けられているプロジェクトの筈が、想像以上に進捗が早く、一日を余して終了となった。興水こしみず老人のお望み通り、快晴に千羽の白鳥が描かれている。一羽ごとに個性があり、二十人を超えるアーティストたちの力が、惜しみなく発揮された作品となった。

 ぼくが描いた鳥達は、比較的右端に位置している。周りと比べるとフォルムが細いが、ぼくは元々丸っこい形を描くのは得意ではないので、それがそのまま表れたのだろう。

 石口せきぐちさんの鳥は、やはり少し歪だった。でも、自信と希望に満ち溢れ、今にも羽ばたきそうな鳥だった。

 ぼくより一回り小さな女性の影が、ぼくの方へと一歩近づいてくる。その影が、小さく息を吸ったのが見て取れた。

「……飯縄いいづな君っ!」

「なんですか?」

 彼女は満面の笑みで、自分のスマホを突き出す。不可解な動作に首を傾げて見せると、彼女はあからさまに膨れた。

「連絡先っ!交換しよう?これからも会いたいしさ!」

 人との関わりを大切にする人なのだと、この六日間で分かった。これは、彼女なりの別れの挨拶のようなものだ。

「……いいですよ。何かあったら、ぼくの方から相談するかもしれませんし。」

 ぼくは、それに応じた。

 午後四時の、夕日にすらなり切れていない太陽が、ぼくたち二人の影を伸ばす。緋色に焼き付けられたその影にどこか気恥ずかしくなったけれど、ぼくはそれを表に出さないよう、少し目線を太陽へ向けた。

「……飯縄君。一回だけ、名前を呼んでもいいかな。」

 果たして、ぼくに聞かせる気があるのかと問いたくなるほどに、石口さんの声が今までで一番弱かった。見ると、微かに頬を朱く染め、目線をコロコロと動かしている。

 逡巡する。けれど、瞬きのうちにそれを捨て去り、彼女の髪を耳に掛けた。

「……ありがとう、水咲みさきさん。また絶対、会いましょう。」

 興味本位で参加したプロジェクトだった。特別な思いも元々はなかった。でも、今ではいい時間だったと思える。

 彼女ほどの明るさを持つ人は、そうそういないだろう。貴重で大切な魅力を持った、素敵な人に出会えたのだから、この時間はいい時間だった。

 その出会いに、ぼくは素直に感謝を述べた。

 石口さんは、わずかに瞳に光を灯すと、ためらいがちにぼくの服の裾を掴んだ。

花束はなたば、君。あたしは、貴方の絵が好き。貴方が無自覚に生み出す、あの優しさが好き。……これからも、素敵な絵を描き続けて。」

 まるで今生の別れの様だなと、その大げさな惜しみに笑みをこぼす。

 彼女に向かって、しっかりと、頷いて見せた。

「ありがとうございます。」


○○○○○○○○○○○○○


「やっぱりお前は、天の遣いだな。」

「……なぜ?」

 一緒に帰ると言われたので、ぼくは亜崎と共に帰路についた。亜崎は道中で一泊するつもりだったらしく、そのホテルで白ワインを呷った。ぼくはあまり得意ではなく、そのまま麦茶に氷を落とした。

「……そんなもん、決まってんだろ。お前はきっと、一生絵を描き続けるって、そう確信しているからだよ。オレが一生かけても描けないような、そんな絵を。」

 ……理解していたことではあるが、やはりこの人は、人を過信しすぎている。こんなぼくが、そんなことになるはずないだろう。

「ぼくは、無名の自称アーティストですよ。買いかぶってどうするんですか。」

「どうもしねぇさ。オレが誇りに思うだけだ。……お前は、オレの誇りだ。つまんねぇ人生生きてきた中での唯一の、な。」

 亜崎は、見事に言い切った。言いながら椅子を後ろに倒して体を揺らし……そして、椅子から見事に転げ落ちた。

 持っていたグラスが割れて、顔にワインがそのままかかる。最初は威勢の良かった絶叫は、段々と大人しくなってしまった。

「……放置していいですか?」

「助けてくれよたばちゃぁぁん‼」

 格好をつけたつもりでも格好はつかない。それが、ぼくの知る亜崎である。


 仕方がないので手伝う。掃除がひと段落つき、亜崎がシャワーを浴びに出ていったとき、電話が鳴った。

〈……花束?〉

 深く考えず取った電話から聞こえてきた声の主は、母だった。見栄で固まった冷たい声へ鳴る、胸のざわつきを抑え、携帯を持ち直す。

「何?」

 言葉に、無自覚な棘が混じる。怒りか恐怖か嫌悪か、正体の分からない震えが治まらない。

〈貴方、もうすぐ大学を出るでしょう?そうしたら、家に戻ってきなさいね。〉

「……は?」

 母親は、大学卒業後に、ぼくが呑気に家に戻るとでも思っていたのだろうか。

 そんなつもりは毛頭ない。一人で暮らすつもりだったのだから。

「帰らない。帰るつもりはない。」

〈え?何言ってるのよ。貴方、一人で何にもできないじゃない。〉

 どこか無機質だった声色を捻じ曲げて、心の底から驚いた声を上げる母に、無性に腹が立った。握力で携帯が軋むのが分かる。それを何とか抑えて、母に向かって吐き捨てる。

「帰るつもりはない。アンタたちの言いなりになるつもりは、もうない。」

 ……散々、アンタたちが見栄を張るためだけに苦しめられて、愚かな姉の尻拭いをさせられて、自分の夢や人格を、これでもかというほど否定され続けてきた。

 もう、アンタたちに望むものは、何もない。

「ぼくに構わず、勝手に生きて。ぼくも勝手に生きるから。」

〈……ま、待ちなさい。そんなことが許されると思っているの?〉

 珍しく、母の声に動揺の色が混じる。けれども、それに構う時間すら無駄だと、ぼくはきつく目を閉じた。

「許されるさ。ぼくの方がアンタたちに散々、好き勝手やられてきたんだから。」

〈だったらせめて、何か変化があったら伝えなさい。そうしたら、私が指南してあげる。それだけは、絶対に守りなさい。いいわね?〉

 ……きっと、それを否定しても、また大量の着信履歴が来るだけだろう。大体、指南してあげるだなんて、上から目線もいいところだ。

「……分かったよ。」

 自分から連絡をすることは、絶対にありえないけれど。

 ぼくは、無言で電話を切る。母が何かを言いかけたけれど、それを聞く気にもなれなかった。どうせ、時間が経てばまた連絡が来るのだから。


「あれ、束ちゃん電話中?」

「もう終わりましたよ。」

 静寂の酒気を纏わせ、わずかに紅く染まった顔で、亜崎が戻ってきた。

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