episode19

 ざきが居ると言われた病院の、亜崎が居ると言われた部屋をノックする。が、声は返ってこない。あの男に、この静寂はあまりに合わず、本当にぼくが知る亜崎なのかと疑問を持った。

「……失礼、します。」

 柔らかな日差しが差し込んで、穏やかな風が白いカーテンを攫う。白く、ただ真っ白なその部屋は、臆病な冷たささえ感じられた。

 ベッドで点滴に繋がれ、仰向けに目を閉じる男は、ぼくの知る亜崎であった。

 やはり、この男に、この静寂は合わない。窓から差し込む光に煽られ、今まさに穏やかに死にに行っているのではないかと思わせる儚さが、妙に気持ち悪かった。

「……誰だ?誰も入れるなと言ったはずだ。」

 亜崎の声は、寝起きの声で、酷くかすれている。目を閉じたままそう言った彼は、忌々しげに目を開いた。

 そして、ぼくの姿を両目に捉えると、驚いたように目を見開いた。

「はっ、飯縄いいづな……!?」

「ぼくも、入ることは許されないんですか?」

 わざとらしく聞いてやる。いつも明るい教授だった……いや、そう『見せていた』亜崎なら、ぼくを追い払うことはできないだろう。

「ああ、いや、なんで居るんだろうと……。」

「友人に聞いたんですよ。アイツです。坂北さかきた坂北さかきたつかさ。」

 戸惑う亜崎に向かい、ぼくは、もう年賀状のやり取りくらいしかしていない友人の名を挙げた。アイツは、五つ離れた自分の弟と同時期に結婚したらしく、もう何年もまともに会っていない。

 しかし、ぼくが亜崎とよく一緒にいたのは覚えていたようで、石口せきぐちさんからのメールが来たあと、同じような内容のメールが、坂北からも送られてきた。坂北も、亜崎との交流を細々と続けていたらしい。

「ああ……。坂北か……。」

 亜崎は納得したようで、頭をもたげていた状態から、首の力を抜いた。その動作は、本当に亜崎が、弱った病人なんだということを理解させていた。


 暫く、両者とも無言になる。居心地が悪くなって、早くも再度目を閉じようとしている亜崎に、持ってきた紙袋を掲げる。

「先生、今、食事ってできますか?」

「重いもんは無理だな……。」

 病人が出す雰囲気を、今は亜崎が纒っていた。なんだか酷く悔しくなって、そっと唇を噛んだ。

「ゼリーなんですけど。」

「……まあ、そんくらいなら。ありがとな。」

 食べ物を持ってきたのはミスったかもしれない。まともに食事が摂れていないとすぐわかるほど、亜崎の体の輪郭はやせ細っている。痛々しいさまだった。

 ぼくは、そっと、サイドテーブルに紙袋を置く。もう一つ、自分のものではない紙袋があった事に疑問を覚えたけれど、親か息子かのどちらかが持ってきたのだろう(十年前に浮気され、奥さんに逃げられている)と、その疑問をすぐに取っ払った。

「最後に会ったのは、師匠の葬式だったか?」

 ゆっくりと、亜崎が身体を起こす。適当に一つに括られた髪は、だらりと胸へ垂れ下がっていた。

「ぼくは、参列してないです。」

「なら、もう、随分前だな。」

 ……実は、行かねばならないと思いつつ、まだ興水こしみず老人の墓には行けていない。覚悟が何だというよりも、漠然と、ただ何となく足が向かないのだ。

「……絵は、まだ描けないのか。」

「はい。」

「今は、何やってる?」

「美術教師、です。描きませんけど。それでもいいと、言ってくださった方がいて。」

「……そうか。」

 亜崎からの質問に、一つずつ返した。光に溶け込んでしまいそうなこの景色。ベッドに横たわっているのが亜崎でなければ、前のぼくは絵を描きたいと思っていたはずなのに。横になっているのが亜崎だからなのか、それとも筆を持てないからなのか。正解はわからないが今は、そんな気は起きなかった。

「ぼくが指導をしている生徒に、とても絵が上手な生徒がいるんです。のぞみあいさんと言うんですけど……。」

「は?のぞみ?」

 亜崎が、彼女の名前に反応を示した。昔と比べれば静かだが、病に身体を蝕まれた今の亜崎にとっては、全力の驚愕だった。

「望逢夢って、U15ジュニア絵画大会で優勝してた奴か?」

「ああ、確か……。」

 U15アンダーフィフティーン。ぼくも幼い頃、挑戦したことがある大会。日本中の子供が、絵の上手さを競い合うという、最大規模のプロジェクトだ。彼女の名前を知ってから調べたら、出てきたのを覚えている。

「望逢夢か……。」 

 亜崎が、口元に手を運ぶ。なにかを考え込む様に無言になるが、その最中で一、二度、咳をした。

「アイゼレックに出してみたらどうだ?」

「アイゼレック……ですか。」

 アイゼレック全国絵画作品展。眼の前の男、ざき浩一郎こういちろうの過去の活動名から来ている、彼がホストの作品展。興水老人は偉大だが、亜崎も、彼一人で作品展を企画できるくらいの知名度を持つアーティストなのだ。

 正直、アイゼレックという名前がどういう意味なのかは知らない。亜崎の学生時代の活動名で、彼にとっての黒歴史厨二病なようなので、あまり触れてはなるまい。

「そんなもの、企画・運営する体力あるんですか?先生。」

 疑いを包み隠さず聞いてやると、亜崎はいかにも面倒そうに、自身が繋がれた点滴の針を眺めた。

「……ただの胃潰瘍だよ、コレ。大げさにするつもりなかったし、お前は未だに病んでるだろうから、お前の耳には入れたくなかったんだけど。」

 亜崎は小声で「余計なことしやがって、坂北の野郎」と呟いた。未だに病んでいるとは、事実ではあるけれどもストレートすぎやしないか。

「入院だってそんな掛かんねぇだろうし、すぐにまた動かすさ。そもそも、この作品展だって十年は超えてやってるんだ。オレがどうこうしなくたって、他の奴らが何とかするだろ。」

 亜崎は、些細な問題だとでもいうように、あっけらかんと笑って見せた。

「そうですか。」

 ぼくは素っ気なく返す。しかし、自分の心情は不安や怒り、不信感で煮え滾っていた。

「オレが病院出て、その子の作品の出展が出来たら、その子に会わせてくれよ。オレのたばちゃんが認めた芸術家となりゃ、相当なもんだろうからな。」

「ぼくは貴方の飯縄いいづな花束はなたばじゃありませんけどね。」

 ぼくを過信しているアーティストに、ぼくは久々に笑って返した。それに重ねて、亜崎も表情をフッと緩めた。

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