episode20

 水咲みさきさんからもらったメールに、ぼくはまた返事を返さなかった。

 忘れてくれと、願った人だったのに。ぼくが居たこと自体を、記憶から消してくれればよかったのに。

 彼女に声を掛けて、彼女の意識にぼくを呼び起こして、また彼女に触れるなんてこと、できないのに。

 滑稽だ。絵を描けないくせに芸術に焦がれるぼくは、やっぱりどこでも滑稽なんだ。

「……世話ないな。」

 ざきの病室を後にして、病院のロビーに置いてあった古びたソファに座りながら、ぼくはそっと呟いた。


○○○○○○○○○○○○○


飯縄いいづな先生、落としましたよ。」

 期末考査が終了し、解放された生徒たちが部活にいそしむ廊下を歩いていると、微かに頭上から声がした。

 少し高くて、凛と静かで、細く柔い。儚い雰囲気で包まれたその声は、ぼくの名を呼んだ。

「……あ、ぼくのペン。ありがとうございます、やなぎ君。」

 中等部一年三組の、やなぎ有月ゆうき君。のぞみあいさんのクラスメイトで、かつ彼女の幼なじみらしい。芸術家として名を馳せる彼女とは別ベクトルで、彼も校内では有名な生徒だ。

 褐色の天然パーマが掛かった髪、イブニングエメラルドの涼やかな瞳、中性的で儚げな顔立ちの、望さんと並ぶ美少年であり、かつ成績は学年一位という、いかにも女子人気が高そうな彼だが、常に無表情で影があり、ただ淡々と物事を口にする様から、少し怖がられている節がある。

「木柳君。今回のテストもお疲れさまでした。美術の筆記、かなりの高得点ですよ。」

「はぁ……。ありがとうございます……。」

 どう返せばいいんだと言いたげに、彼の瞳が鈍く光った。百八十五センチを超える背丈に無表情は、流石に迫力がある。本人は華奢な体型で声も低くはないのだが、それでも目線を超えてこられると驚くものだ。

「まあ、ボクは望さんと違って、作品制作は苦手なので、取れるところは勉強しないといけませんから……。」

 自嘲気味に肩をすくめる様子すら様になる。望さんと同様に、木柳君はぼくを怖がらない、珍しい人種の一人だ。木柳君自身も、周りから恐れられているからなのかもしれないけれど。

「三組のクラスメイトは、やっぱり混乱していますか、急に担任が不在になってしまって。」

 ぼくが木柳君に何の気なしに尋ねると、彼はピクリと肩を震わせてから、無表情のままではありつつも、微かに目線をずらして「まぁ、消化不良は否めないですね……」と呟いた。

 考査期間中、一年三組の担任をしていた数学教師の大島おおしま先生が、急遽辞職となった。その理由は校長にすらも明かされないまま、彼女は突然、フッと消えてしまった。

 中等部一年三組には、望さんと木柳君が在籍している。突然いなくなった担任に対し、昨日の部活で顔を合わせた望さんが一言も話さなかったので、少し疑問には思っていた。

「まぁ、二学期になったら新しく誰かが来るでしょうし、来なかったとしても、数学の先生はもう一人いらっしゃいますから。きっと大丈夫だと思います。」

 木柳君は、自分自身に言い聞かせるようにこくりと頷くと、「それより……」と、目線をぼくに合わせた。

「アイ……いや、望さんが、大きな作品展に参加するって言っていましたよ。飯縄先生の誘いだ、って。」

 別に、そのまま望さんを普段と同じ呼び方で呼んでもいいだろうに、彼はわざわざ言い直した。

 テスト期間中に、ぼくはアイゼレックの話を彼女に持ち掛けた。望さんはテスト勉強をしながら「今、それを言うんですか?」と、笑っていたけれど。

「ええ。ぼくの恩師が運営している作品展なんです。ぜひ、彼女の作品も、と思って。」

「なるほど。」

 望さんの話を聞く木柳君は、顔は無表情のままだけれど、声が心なしか楽しそうだった。自分の幼なじみが世間に認められて、誇らしく思っているのだろうか。

 そんなことを呑気に考えていると、木柳君は目を伏せた。それから、緩く自分の手に力を込める。

「アイは、凄い……。」

 ぼそっと呟いたその言葉は、ぼくに聞かせるつもりも無かったのだろう。単純な憧れなのか、それとも、彼女に置いて行かれるような焦燥か。不器用かつ年相応な少年の一面が、冷静沈着な優等生から垣間見えた気がした。

 学校の優等生であっても、校門を出たらただの中学生だ。それに対して、自分の幼なじみは世間に名を知られ、大人からも実力を認められているアーティスト。多かれ少なかれ、壁は感じるのだろう。

 声を掛けるべきか、迷う。推測で大人が物を言ってもいいのかと頭をひねっていると、小さな上靴の足音が聞こえてきた。

「……あれ、有月ゆうき?帰ってなかったの?」

 丁度、階段を下りてきた望さんが、木柳君に声を掛けた。確か、今日は学級委員が三年の教室に集められていた。恐らく、三年生から可愛がられている望さんだけが留まり、怖がられている木柳君は帰らされたのだろう。……なんだか、可哀想になってきた。

「アイ!……任せてごめんね。お疲れ様。」

 長身の木柳君と小柄な望さんの身長差は、ざっと数えて四十センチはあったはずだ。ぼくの目の前で会話をする二人は、見事に目線を合わせづらそうな高低差だ。十センチ程度の差しかない筈のぼくですら少し怖かったのだから、彼女はすくみ上りそうなものだけれど、望さんは木柳君に、花の咲いたような笑みを浮かべていた。

「いいよー全然。っていうか、委員長は有月ゆうきに対する恐怖心を顔に出し過ぎだよね。ちゃんと話せば、怖い所なんて何一つないってすぐわかるのに。」

「……まあ、顔変わらないのは自覚してるから。」

 望さんの言葉が痛い。木柳君を怖がってしまった自分を、ひそかに叱責する。

「じゃあ、飯縄先生、さようなら。」

「はい。また明日。ペン、ありがとうございました。」

 木柳君と望さんは、同時に頭を下げてから、教室の方へと歩いて行った。他愛もない会話をする二人の間には壁がなく、美男美女同士でいやに絵になった。

 

 それにしても、木柳君にすらアイゼレックの話をしているとは、望さんはどれほど気合を入れて臨んでくるつもりなのだろう。

 きっと、驚くほどに力を入れてくるんだろうな。

 自分が予想もできないような芸術品を楽しみに、ぼくは拾ってもらったペンを回しながら、職員室へと移動した。

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