ブルーラグーン 一つのグラスに二人の夢を。
水浦果林
episode1
「
「……は?」
今が三月だからという理由で筆を持ち、他の急務を中断してまでアイオライトを描こうとする亜崎は、ぼくが通う美術大学の教授の中でも、トップクラスの変人なのだと思う。
「ログハウス……ですか。」
彼が気に入っているローズマリーティーをローテーブルに置いても、亜崎はそれに反応せず、何かに取り憑かれたように、一心不乱にアイオライトを描き続けていた。
「そう。今度ね、オレの絵描きの師匠が、お世話になった病院へ向けた応援プロジェクトで千羽の白鳥を描こうって。
病院の応援プロジェクト。確か去年のこの時期にも、亜崎は似たような話をぼくに持ち掛けてきた気がする。決して興味がないわけではなく、寧ろやってみたいと思うけれど、亜崎にそれを見透かされている気がして何となく癪に障る。
そもそも、美大の教授が一人の生徒に向かって『絵が上手い子』と言い切ってしまうのはどうなのだろうか。芸術は比べようがない。絵を描いた本人が上手いと思えば、それは紛れもなく上手いと、逆に下手だと思っていれば下手なのだと、言ってしまえば“力業”が可能になるものなのに。
「ログハウス……木はどうでもいいですけど、どうして、ぼくなんですか?他にも適任者は居るでしょう。」
絵の具や油で汚れた亜崎の背をこっそり睨んでみる。だらしない猫背がやっとアイオライトを描くことを辞めて、ぼくの方へと向き直った。
「なんでって言われてもね、ハッキリとは答えられないんだよなぁ。束ちゃんだからじゃない?」
困ったように頬をかく亜崎に、ぼくは半目を返した。
「先生、まずその呼び方をやめて下さい。ぼく、自分の名前、好きじゃないので。」
「えー?かっこいいじゃねぇか、
「……まあ。」
盛大に溜息を吐いてやろうとした寸前で、亜崎の声色が真面目なものに変わった。ローズマリーティーのカップをわずかに揺らして、亜崎のテリトリーと化している第三美術室に、ローズマリーの香りを舞わせた。
「その知り合いの画家って、オレが昔から世話になってた人だったんだよ。その人がしばらく入院しちまって、やっと退院できたのが二月前。だからこそ、その師匠が病院に感謝を伝えたい、そして、その病院に入院している他の患者や、そこで働いている医者さんや看護師さんやらを励ましたいってのは凄ぇ分かるんだよ。」
亜崎はお茶を一気に呷ると、その勢いに反して丁寧にカップを置いた。
「大事なプロジェクトなんだ。だからこそ、それを任せられるくらいの力を持った芸術家にしか、こんな話は吹っ掛けねぇよ。」
……亜崎には、影の落ちた顔は似合わない。あまりに調子に乗りすぎて、すぐ人を必要以上に買い被る所は欠点だが、もしかしたら、それが彼を形成する、彼の美点なのかもしれない。
亜崎から目を逸らす。プロジェクトに対して色々考えてみようと思った矢先、亜崎がニヤリと笑ったのが視界に入った。
「それにお前、こういう絵画プロジェクトとか、好きだろ?」
……見透かされていた。
「アンタ、楽しんでるでしょう⁉」
だから、ぼくは亜崎が好きではないのだ。心の底から、そう思った。
○○○○○○○○○○○○○
「……ったく、手強い野郎め。」
何分も悩み続けた後、参加しますとだけ言って部屋を出ていった飯縄を見送りながら、オレは煙草を咥えて呟く。彼の細身の体も、目にかかりそうな長さの前髪も、そのまま、いつもの飯縄だった。
飯縄の作品を初めて見たとき、オレはその場で腰を抜かすかと思ったほどに驚いたことを覚えている。
これ以上ないくらいに力強く、それでいて繊細なタッチ。リアリティの中に幻想的な光が舞っていて、その絵に感覚をすべて奪われ、釘付けになってしまった。
その時の飯縄は、十九歳。あの年齢で、あれほどまでに深みのある絵を描くことが出来る人間をオレは知らなかった。
あいつの高校時代からの知り合いは、飯縄のことを『美術の恩恵を受けた芸術家』と称していた。
間違いなく、オレが出会った中で一番の芸術家だと思った。
家では芸術系の大学に行くことを相当反対されたらしく、度々『これでよかったのか』と自問自答している姿を見かけたが、それでもあいつは絵を描くことが好きだと言って、絵を描くことを辞めなかった。
結局、自分では誤魔化しきれないくらいに、あいつは絵を描くことが好きなんだろう。自分で口にする以上に、絵を描くことを生きる喜びとしているんだろう。
「アイツはきっと、一生絵を描き続けていくんだろうな。」
もう飯縄の姿が見えなくなったただの廊下を眺めつつ、オレは一人で呟いた。
……この四年後、飯縄が『絵を描くことをやめる』とも知らずに。
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