episode24
「私、今日、先生の絵を初めて見ました。」
「は?」
しんみりした声で言われても、理解が出来ない。ぼくの絵など、こんなところにあるわけがないのに。
「どういうことです?」
「本当に綺麗です……。」
「話聞いてください。っていうか、何処見て喋ってるんですか?」
絵を描いているときを除き、普段は相手と目を見合わせて真剣に会話をする彼女が、ぼくとは明らかに違う方向に目線を投げている様子を見て、可笑しくなってしまった。笑いを含んだ声でぼくがそう尋ねると、望さんは、見上げていた壁を指さした。
「これですよ。先生の作品ですよね?
全く身に覚えがない。どういうことだと壁を見上げて、ぼくはひゅっと息を詰まらせた。
驚きすぎて、声も出なくなった。身動きを取る方法を完全に忘れ、呼吸すらままならなくなった。
……どうして。
此処にあるはずがない。それどころか、この世に存在しているはずがない絵が、重々しく壁に掛けられていた。
ぼくが絵に絶望するきっかけになった、あの絵。無意味にキャンバスを汚しただけの、あの悍ましい色彩。
それが、目の前にあった。
「……なんで、こんなもの。」
やっと絞った声は、隣の望さんにすら聞こえていなかったかもしれない。自分の声かどうかも、よくわからなかった。
あの後、この絵は捨てたはずだった。それなのに、どうして、まだこの世にある?そして、どうしてここにある?
望さんの、何処か幼い「先生?」という声を聞き流し、ぼくはその絵からそっと目を逸らす。この絵は、直視するものではない。直感的に、そう思った。
「たーば。」
いつから此処にいたのか、
「この絵は、オレが拾ったんだよ。捨てるには勿体無くてさ。」
「……なんで、わざわざ。こんな絵を描いたから、ぼくは筆を持てなくなったのに。」
「一回でも、ちゃんと見たことあるか?オレは美術のことなんて何も分かんねぇけど、綺麗ながらも人間味があって、いい作品だと思うんだけどな……。」
「葉鳥。」
「お前に指導してたっていう
「葉鳥。」
「人間らしさって、大事だと思うのよ?実際、これは花束が憧れてた人がモデルとか……。」
「葉鳥くん‼」
昔の呼び方で、笑いながら喋っていた葉鳥はやっと口を閉じた。驚いて後ずさった拍子に、葉鳥の眼鏡がずり落ちた。
「どうして、そう思うの?まるで破滅でも描いたような……いや、何を描きたかったかもわからない絵なのに。人に見せるものじゃない、この悍しい惨状を、葉鳥、どうして……!」
……ああ、駄目だ。結局ぼくは、ずっと怯え続けているままだ。閉じ籠もって、筆を執ることを避け続けているだけだ。
でも、仕方ないじゃないか。これ以外に、自分を守る方法が何一つ見当たらなかったんだから。
怒りにも恐怖にも成り切れない感情を、そのまま口にして涙を落とす。きっと、眼の前の葉鳥も、ぼくの横にいる望さんも、呆れているだろう。
そりゃそうだ。だって、自分が一番、自分に呆れているのだから。
眼の前で隠す気なく涙を流す教師を、望さんはどう思っているのだろう。
何年も弱いまま成長しない幼なじみを、葉鳥はどう思っているのだろう。
変わる努力を何一つせず泣き言を吐く教え子を、亜崎はどう思うだろう。
そして……、自分を突き放した男を、あの人は一体、どう思うのだろう。
わからない。そんなもの、自分が足搔いて分かる所じゃない。
見に来ていた客は、意外にもぼくたちに気付かない。気付かないまま、静かに芸術品を眺めている。それが、涙で滲んで見えなくとも、気配でわかった。
「……飯縄!」
「……花束。」
「……先生?」
いつの間にか近づいてきていた亜崎と、眼の前にいた葉鳥と、自分の横で押し黙っていた望さんが、同時に声を上げ、それぞれの呼び方でぼくを呼んだ。三人の声に、ぼくは微かに、俯いていた視線を上へもたげる。
「お前、自分の絵を、一度だってちゃんと見たか?これがどうやったら破滅に見えるんだ!」
「花束、お前は自分が生み出した幻覚に侵されんじゃねぇ‼」
「先生、これは紛れもなく、被写体を描いた『絵』ですよ。」
亜崎が地を這うような低い声で唸り、葉鳥がぼくの胸倉を力づくで掴み、望さんがぼくの背に手を置いた。
見たくない、とどこかが叫んでいる。けれど、ぼくはそれを理解しないふりをして、そっと、涙で滲む視界のまま、絵を見上げた。
「……?」
涙の上で揺れるその絵は、破滅とは少しだけ違っていた。
一人の女性の絵。様々な色を使っているため統一感は無いけれど、カラフルなパズルのピースをぐちゃぐちゃに押し込んだような形にはなっていて、みられたものではないけれど、破滅とは少しだけ違っていた。
……あのときに見えた絵は何だったんだろう、とまでは思わない。
でも、少しだけ、このキャンバスを『絵』と認めてあげられるような、そんな気はした。
歪に震え、押しつぶされた、未完成の女性の絵。これはきっと、“彼女”を思い浮かべた絵だったのだろう。
「絵、だ……。」
涙が落ちた。溶けて消えそうな声のまま呟いた上に、しっかりと自分の気持ちが反映されている気がした。
「分かったか?花束。オレは美術のことなんて何一つ分かんねぇけど、お前の師すらもこの作品を『絵』だと認めた。……肯定してやれよ、ちゃんと。」
葉鳥が、ぼくの肩に手を回す。涙が絶え間なく落ち続ける状態のまま、微笑む三人の気配を感じ取りながら、何度も、何度も頷き続けた。
○○○○○○○○○○○
「……いやぁ、それにしても凄ぇな、どうなってんだこれ?」
「ありがとうございます!飯縄先生から、亜崎先生のお話は伺っていますよ。」
「え、あいつって、オレの話すんの⁉」
望さんと亜崎が、楽しそうに会話を始めた。望さんの絵の展示場所に戻ってきたのだ。
ぼくは葉鳥と、近くにあったソファに腰を下ろしていた。久々に泣いたせいで、目が熱を持って腫れていたので、さっきまで冷やしていた。
「あの先生、言ってたぞ。……花束は、また絵を描くだろうって。」
葉鳥が、手に持っていた麦茶を啜りながら、呟いた。彼の穏やかな目線の先には、望さんの絵が映っているに違いない。
「……なんで?」
「さっきの絵がどうしても気になってさ、お前のケータイからあの人に連絡取って、聞いてみたのよ。花束が絵を描けなくなった理由ってこの絵が原因なんですけどーって。勝手にやって悪いけど。」
軽く気安い声の調子で、葉鳥はそう言った。麦茶を飲み干した紙コップをへし折ると、そのまま近くのごみ箱に捨てる。
「そしたら、あの亜崎さんって人、泣いてたんだよ。『……馬鹿みたいだ』って。」
「はぁ……?」
いきなり馬鹿とは何だ。あの時のぼくにとっては、本当に恐ろしく思えてしまったのだから、そんなことを言われるとは思っていなかった。
葉鳥は目を閉じて、その時の様子を思い出すように言った。
「『失敗なんていくらでもあるし、他人に決められた評価が自分に通ずるとも限らない。でも飯縄は、こんな絵の一つで、今までかけてきた時間の全てを投げ捨てる奴じゃない筈なんだ。一度でも立ち止まるこの時間が、オレには馬鹿らしく思えてしょうがない』って。『この絵は、飯縄の実力の集大成のはずで、賞賛されるべき絵になるものなのに』とも言ってた。」
亜崎は一体、いつの時代のぼくを見ているつもりなんだろう。それにまともな言葉を返さず、ぼくも紙コップのブラックコーヒーを口に含んだ。
「あ、あと、望な。望も言ってた。」
唐突に彼女の名前が出てきて、ぼくはそのまま、唇とコップを離した。
「え?何の話?っていうか、いつ?」
「ついさっき。オレと話してた時に。オレがお前に話しかける前にも一回、お前の絵を見てたんだよ。その時に、言ってた。」
葉鳥は、自分の眼鏡をそっと外した。プラスチックの安い音が、微かに耳に触れる。
「『勝手な解釈になりますけど、恐らく飯縄先生は、自分がこれ以上、絵にのめり込んでしまうことを無意識に恐れていたのではないでしょうか。この絵を完成させたら、もうこれ以上の物は描けなくなると、感じたんじゃないかなって。……でも、そこはきっとゴールなんかじゃない筈です。その事実をばねに、更に上っていけばいい。私も、そんな領域まで行けたらいいんですけどね』だってさ。」
自分の到達点を、恐れて?
確かにあの日、ぼくは異常なまでに絵にのめり込んでいた。現実とのギャップが、背筋に痛く響くくらいに。
「……そうなの、かな。」
そう言われると、そうとしか思えなくなってしまう。ぼくはそっと自分の手先を眺めた後、小さく息を吐いた。
もうずっと、絵の具で汚すことのなかった手先。手を握りしめて、ぼくは葉鳥に尋ねた。
「ねえ、葉鳥。……家に帰ったら、ブルーシート、敷いてもいいかな?」
ソファに沈んでいた葉鳥が、勢いよく体を起こす。
すべての恐怖、嫌悪が拭えたとは到底思えない。でも、少しだけ、自分を許せるのではないかという気になっていた。
絵を、描けるときが来るといい。昔から抱き続けていたそんな淡い願いの元、ぼくは笑みを口にした。
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