episode3

「……飯縄いいづな君?」

 あたしは、樹の下で目を閉じる、一つ年下の美大生に声を掛けた。反応しないところを見ると、眠っているのだろう。

 目にまでかかる前髪の奥は、どこか鋭く切れ長で、少し怖い。けれど、彼の周りに壁はなく、むしろ近寄っていけば、何でも許されてしまいそうな雰囲気があった。

「近くで見ると、本当にイケメンだねぇ……。」

 心で思っただけだと羞恥心に潰されてしまいそうだったので、あたしはわざと声に出した。

 肌は白くて、輪郭は細くて、鼻筋が通って、唇は薄い。ぱっと見ると怖いけれど、実際はそんなことなく、目元にも彼らしい柔らかさが潜んでいた。爽やかな景色が、本当によく似合う。

 ……そういえば、あたし、この人の下の名前を知らない。自己紹介のときも、あたしはフルネームを名乗ったけれど、彼は「飯縄です」と言っただけだった。

「……石口せきぐちさん。」

「へ? あ。」

 彼の前髪に触れようとした瞬間、飯縄君がそっと目を開いた。木漏れ日が彼の瞳を輝かせている。光を受けたその瞳は、子どものように純粋だった。

「……すみません、寝落ちしました。」

「あ……はは、大丈夫だよ!片付けはやってくれたから!」

 ゆっくりと体を持ち上げていた彼は、あたしのぎこちない笑いにゆっくりと首を倒す。やり過ぎた言動を訝しんでいるようだ。

「ご、ご飯の準備だね〜!」

 自分の顔が少し熱くなっていることを自覚し、顔を手であおぎながら、あたしは夕日に背を向けた。


○○○○○○○○○○○○○○○


「おっ、たば!どうよそっちは?」

 ご飯を研いでいる飯縄君に、無精髭に長髪の男の人が明るく声を掛けた。知り合いのようで、飯縄君は「亜崎あざき……」と迷惑そうに呟く。

「どうよ、って言われても……。勝手において行かないでください。おいていくのなら、せめて一言。」

「ごめんって。」

 男の人が、情けない笑顔を浮かべ、頭をペコペコ下げながら遠くへ移動する。それに対し、飯縄君は軽く溜息をついた。

「束って、飯縄君の名前?」

 聞いてみた。

 飯縄君は、あたしの存在を視認すると、おもむろに横へと目線をずらした。 

「……苗字でいいですよ。自分の名前、嫌いなので。」

 なかなか釣れない。でも、あたしはもう、彼の名前を知る気満々になっている。

 少し身を乗り出して聞いてみる。彼が驚いた拍子に、飯縄君が研いでいたお米が、流しへ少しこぼれた。彼の骨ばった指が、冷たい水で赤くなっている。

「呼ばないからさ、教えてよ。初対面の人の名前を知らないって、ちょっと失礼な気がするから。」

「ぼくはそうは思いませんよ?」

 途轍もなく面倒だな、って顔された。幼い頃を知ってくれている人から貰ったはずの名前、よほど嫌いなのだろうか。

「いいじゃない。これが終わったら、会うことも無くなるでしょ?」

「貴女の性格上、そうは問屋が卸さないのでは……?」

 ……バレた。

 だって、せっかく何かの縁で会えた人だもの、そこだけの繋がりにするなんて勿体無いじゃない!

 今は文明の利器があるんだから、歴代の偉人の努力の結晶に、ちょっとくらいあたしたちが胡坐をかいて何が悪い!

 これ、あたしの持論だけど。

 炊飯器にお米をかけた飯縄君が、少し唸ってから、口を開いた。

「……笑わないで、下さいね。」

「? うん。」

 輝く名前キラキラネームの類か。アーティストの家系には多いんじゃなかろうか、それくらい。芸術家を親に持つあたしの友達にも、珍しい名前を持つ子は何人もいるし。必ずしもそうとは限らないけれど、自分の子へ贈る初めのプレゼントとして、特別目立つ名を贈るアーティストは多い気がする。

 飯縄君は、適当に紙とペンを持つ。それからサッと、綺麗なブーケの絵を描いた。即席で描いたものなので、簡易的な線で描かれたブーケだけれど。

「これ、何に見えます?」

 ……ブーケじゃないの?

「え、えーっと……マーガレット?とか?」

 彼が示していると思われる、一番それらしい花を答えてみる。飯縄君は、ゆるゆると首を振った。

「全体的に、です。」

「あ、ブーケでいいの?」

 飯縄ブーケくん、か。

「はい。飯縄いいづな花束はなたば、です。」

 ……日本語だった。どこかで、花束とブーケに違いがある、なんて話を聞いたことがあるけど、あたしは興味がないので、日本語訳と捉えさせてもらおう。

「なるほどね……。綺麗な名前だなぁ。どことなく、雰囲気に合っている気もする。」

 あたしは、思ったことを率直に口にした。飯縄君は、照れることも怒ることも喜ぶことも悲しむこともせず、何も答えないまま、そっと冷蔵庫の前へと移動した。

 ただ、一瞬だけ、彼が自分の手を眺めていたことだけは分かった。


「料理、上手うまっ!」

「……そうですか?」

 飯縄君は、段取りよく、けれども丁寧な工程で、さくさくと料理を作り進めていった。家庭科の成績が低かったあたしは、当然のごとく目を丸くする他なかった。

「いや……、これ、相当ハイレベルなんじゃない?家事代行のバイトでもしてたの?」

「料理は趣味の一環ですよ。生活に必要なスキルでもあるので、練習はしましたが。」

 なんということでしょう。一人暮らしのあたしの家事スキルは、美大生の男の子以下でした……。まあ、あたしはご飯も外食や冷食に頼っちゃってるけど。

「っていうか、なんで大皿で作らないの?プロジェクトに参加した人全員で食べるんだし、その方が効率よかったんじゃ……。」

「え?」

 あたしの率直な疑問に、味噌汁の玉ねぎを切っていた飯縄君は、とぼけているふうでもなく、純粋に驚いた顔をした。眼鏡もコンタクトレンズもつけていない(らしい)ので、瞳が僅かに潤んでいる。

「……実家では個人で料理を出されていたので、その発想はなかったです。」

「なかったんだ?」

 今作っているのも和食が中心だし、格式を重んじる家庭なのかもしれない。いいところのお坊ちゃんだったり……?

「母親が健康に五月蠅い人で、色々と言ってくるんです。一日のビタミン量、蛋白質、糖質と、わざわざ計算してから料理を作りますし。学校帰りにコンビニで物を買うことすら、高校時代は禁止されていて。」

 ……栄養分まで計算とは。愛が重いな、母上。

「高校時代、部活やってたりした?あ、でも、美術部か。じゃあそんなに……。」

「サッカー部でしたよ。弱小チームだったので、大した結果は残せていませんが、一応スタメンでした。」

 サッカー部?運動部だったの?

「運動部の男の子が、家に帰るまで何も食べないって、よく生きてたね⁉」

 あたしの学校の男子たちは、いつ何時でも何かしら食べてた記憶があるのに。なんなら、女子だってそうだったよ。お昼休みじゃない時間に、パン齧ってたよ。

「元々、そんなに大食いでもないので。高校時代も食欲は人並み以下でしたよ。」

 鍋でお味噌を溶かしながら、飯縄君はそう言った。慣れた手つきで味噌を溶かすその手首はほっそりしている。……あたしよりも華奢なんじゃないだろうか。

「だからそんなに細いの?飯縄君。」

「……そこを突っ込むのはやめて下さい。」

 なんだか、楽しくなってきた。あたしは、料理を長机に並べる飯縄君の背を見て笑う。

 なんだか、彼は喋りやすい。あたしが勝手に、そう感じているだけかもしれないけれど。

「じゃあ、自分のことを大切にしてくれたお母様だから、やりたいことをできたのかもしれないね!」

 ピタリと、彼の動きが止まる。背を向けている彼が、唇を噛んだのがなんとなくわかった。

「……そう、ですね。」

 明るい賛同の声の筈なのに、何処か擦れて、変に上ずっていた。

 あんまり、立ち入らない方が良かったのかもしれない。

 人は愛に餓える。それはきっと誰だって共通で、欲情は誰もが持っている。食欲、物欲、色欲……愛が欲しいと思うそれは、愛情欲求もしくは依存欲求だろうか。

 人の愛は、複雑かと思えば単純で、でも単純かと思えば複雑だ。誰かに大切とされること。それは素敵なことだけど、一歩間違えれば、受け取り手への侮辱にすらなるのだから。

 ……飯縄君は、まずその次元なのかすら分からないけれど。

「飲み物、何出そうか?」

 飯縄君に申し訳なくなって、あたしは小走りで冷蔵庫へと移動する。背後から、誰に聞かせるわけでも無い「……気を使わせてしまったな」という呟きが聞こえたのが、胸にはひどく痛かった。

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