episode12

「……そういやさ、お前、今の仕事、辛くねぇの?」

「え?」

 二人でコーヒー(飲めない葉鳥は砂糖とミルクを投げ入れていた)を飲んで一息ついた頃、葉鳥がぼくに聞いてきた。

「辛いって、なんで?」

「毎日、絵ばっか描いてんだろ?自分で描くのがダメなんじゃなかったっけ?」

「ああ……。」

 眼鏡を曇らせた間抜け面に向かって、ぼくはぼんやりと、形のない上っ面の返事をした。微かに酸味のある香りと、舌を撫でる苦味が、一瞬だけ薄まった気がした。

「……まあ、仕事だから。」

 正直、全く苦でないとは言い切れない。はっきり『辛い』とは結び付かなくても、確かに心の先を削られているのは確かだった。

「ふーん……。」

 葉鳥は、カップの中身を勢いよく飲み干す。溶け切らなかった砂糖が底に残っているとは、どれほどそのコーヒーは甘かったのだろう。

 カップを床に置いた勢いで、葉鳥は立ち上がる。髪が揺れて、眼鏡がずれて、口角が上がった。

「じゃあ、オレの仕事手伝ってよ。結局、美術関連なんだけど。絵を描くことはしないから。」

 眩しい笑顔を向けられた。一瞬、その笑顔が誰へ向けられたものなのか、二人きりなのに分からなくなった。

「……は?」

 葉鳥の職業って、教師じゃなかったっけ。他人がいきなり入り込んで良い所なのか。

「どういう……こと?」

「話はあとから通すけど、非常勤講師ってこと。」

 葉鳥の話をまとめると、すなわち、こう。

1.葉鳥の学校は特殊で、初等部・中等部、高等部がある公立校。田舎で就学人口が少ないため、統合されている。

2.初等部と中等部は専門性がないが、高等部からは普通科・特進科・芸術進学科・芸術特進科の四コースがある。

3.高等部の教員は専門知識を教えることが主であり、現在、初等部と中等部の美術教員の不足が出ている。

「だから、良い人いない?って話が出てんの。お前、教員免許持ってたろ?」

 名案!とでも言いたげな顔。疑問は多いが、あまり突っ込むのはやめておいた方がいいかもしれない。

「一応……。でも、葉鳥。美術教師は結局、絵を描くでしょ?生徒に説明するために。」

 葉鳥は、ひどくあっけらかんと笑った。

「そんなもん、図鑑でも見せりゃ解決するだろ。本当に困ったら、他の美術教師に聞けばいいし。」

 無茶苦茶だ。あまりにも。あまりにも破天荒で、彼の授業を聞いている生徒さんたちが心配になってきた。

 やってみようか、と口にしようとしたとき、ふと一つの恐れが浮かび、指がピクリと痙攣した。

「……教師って、子どもに物を教えるわけでしょう?」

 葉鳥に、静かに問う。葉鳥から笑みが落ち、スッと真剣な瞳に変わる。薄い唇が何かを言いかけたようだけれど、直ぐに葉鳥は口を閉ざす。

 僕の中での教師のイメージは、小学生の頃の葉鳥の担任と、大学時代の亜崎浩一郎の二人によって出来上がっている。そして二人は、それぞれ見事に二極化していた。

 小学生時代の葉鳥の担任は、クラス内で起こった問題に目を向けなかったくせに、事細かなことには怒鳴るという、子どもからも保護者からも評判が悪かった教師だった。実際、葉鳥自身も大きく被害を受け、傷ついていた。

 そしてもう一人、亜崎は、唯一ぼくが尊敬する師である。教え子との一定の距離感を保ちつつ、必要な所には入り込む。丁度良い付き合いをしていた教師だった。

 教師になるとして、理想とするのは勿論亜崎だ。けれど、彼の存在は、ぼくにとってはあまりにも大きすぎる。

「ぼくが、人に物を教えることが出来ると思う?」

 正直、あの担任からの被害を受けていた葉鳥が教師という道を選んだことに、高校時代のぼくは驚いたんだ。

 葉鳥は「あんな教師になりたくないから、オレは教師になるんだ」と言っていた。昔はその言葉の意味が全く分からなかったけれど、今なら漠然とそれが分かる。

 だからこそ、ぼくには無理だと悟っていたのに。

「……。」

 葉鳥は、椅子に腰掛ける。それから、「束」と短くぼくを呼んだ。

「オレは今、お前の逃げ道の一つを提示したつもりだったんだけどな……。」

 パソコンのキーボードを打つことしかしない葉鳥の骨ばった指が、そっと空になったカップを避けた。低く、安心する声で、葉鳥は声を続ける。

「教える子どものことを気にしてほしいと言ったわけじゃなくて、“お前の”逃避先なんだよ。」

 葉鳥は、そこで一旦言葉を区切ると、ぼくの頭に手を置いた。

「花束。お前は、どうしたい?」

 葉鳥の瞳に、慈愛の光が見えたのが分かった。

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