石川の思い
「いや、まいったぞ」
とぼけた声が、室内に響き渡る。
ここは、都内にある会員制ホテルの一室だ。内装に派手さはないが、落ち着いた雰囲気が漂っている。置かれているものも高級感がある。「勝ち組」や「上級国民」という言葉が似合いそうな部屋だ。
今の声は、寝室にいる男が発したものだ。ガウン姿で、誰かに聞かせるかのような音量でボヤいている。身長は高からず低からず、顔立ちはユーモラスだ。中堅どころのお笑い芸人、という雰囲気である。
もっとも、この男はお笑い芸人ではない。格闘技イベント『Dー1』のプロデューサーであり、格闘技団体の
横に置かれたベッドの上では、ネグリジェ姿の女がスマホをいじっている。年齢は、二十代後半といったところか。美しい顔立ちではあるが、鋭い目付きからは気の強さを感じさせる。
「こりゃあ、どうしたもんかなあ……」
石川は、もう一度ボヤいた。すると、女がようやく顔を上げ尋ねる。
「和くん、また悩み事?」
「
冗談めいた口調で、石川は答える。
来月とは言うが、正確には二週間を切っている。この短い期間で、Dー1に相応しい試合を組まなくてはならないのだ。
本来なら、第一試合はベテラン選手の
この竹崎、戦績はぱっとしない。だが、知る人ぞ知るキックボクサーなのだ。かつては地元でも有名な不良少年で、少年院にいたこともある。更生しキックボクシングのジムに入会し、やがてプロになった。派手な打ち合いで観客を湧かせるのを信条としており、格闘技ファンの間では有名である。
そんな竹崎も、今年で四十歳。マスコミには、引退を表明している。そんな彼に石川は目を付け、引退をDー1でどうだ……と持ちかけたのである。竹崎は承諾し、来月のDー1第一試合として行われるはずだった。
もっとも、こうなっては白紙にせざるを得ない。
「英華ちゃん、さっきから何見てんの?」
言いながら、ベッドで寝そべる英華に抱き着いていく。
すると英華は、スマホの画面を見せた。
「動画。和くんも、これ見てみなよ。面白そうだよ」
言われた石川は、画面に目を凝らす。
「はあん? 何じゃこりゃ?」
それは、どこかの格闘技ジムの映像だった。リングが映し出されており、ふたりの選手が相対している。どちらもヘッドギアで頭と顔を覆い、グローブは大きい。おそらく十六オンスだろう。足には、レガースを付けている。アマチュアの試合だ。しかも、女子の試合のようである。
「アマチュアの試合かい。それも女子選手か。いい選手でもいるの?」
「よく見てよ。背の高い方、片手がないんだよ」
言われてみれば、確かにそうだ。片方の選手は、左の前腕が途中までしかない。
「あ、本当だ。これ大丈夫かいな?」
石川が不安そうに呟いたが、無理もないことだ。キックボクシングでは、片腕がないことは大きなハンデになる。顔面を叩き、そして顔面を防御する……攻防どちらも、両腕をうまく使う技術が要求されるのだ。片腕がないと、大きなマイナスである。
リング上では、長身の選手が軽快な動きで相手を翻弄している。ステップは速く、しかも変則的だ。相手を寄せつけず、前蹴りを放ち距離を詰めさせない。数多くの試合を観戦してきた石川の目から見ても、なかなかのものである。
「いい動きだな」
思わず唸った直後、試合の流れは一気に加速する。
長身選手が、前蹴りを放った……かに見えたが、途中で変化する。内回し蹴りのような軌道で、相手のみぞおちを打った。
相手の動きが止まった瞬間、今度は右の拳が飛んでいく。大振りのフックが、相手の顎をまともに捉えた。
相手は、ばたりと倒れる。意識が飛んでしまったのだ。
レフェリーがスッと近づき、しゃがみ込んで表情を見る。直後、立ち上がり両手を振った。試合終了の合図だ。
「ほう、やるやないかい」
冗談めいた口調で呟いた。悪くない。
画面上では、勝った選手がヘッドギアを外してもらっている。美しい顔だ。そこらの十把一絡げなアイドルグループよりも、顔のレベルは上だろう。綺麗な形の瞳は勝利の喜びで輝いており、表情からは嬉しさが滲み出ている。見ているこちらにも、喜びが伝わってくる。
だが次の瞬間、石川の表情が硬直する。女のヘッドギアを外している男の顔には、見覚えがあった。はげ上がった頭、厳つい顔、ずんぐりとした体型。もっとも、半袖のTシャツから覗く腕は太い。ただ太いのではなく、筋ばっており線が浮き出ている。筋肉質であることは確かだ。
「黒崎……またお前かい」
石川は、吐き捨てるような口調で呟いた。鋭い目で、画面の黒崎を睨む。
あの男に負けている点などない。社会的地位は、石川の方が遥かに上である。しかも、黒崎は前科者なのだ。取るに足らない存在であり、注意を向けるに値しない人間のはずだった。さらに言うなら、あの男は石川に恨まれるようなことはしていないのた。
にもかかわらず、石川は黒崎を無視できない。その存在は、未だに高くそびえ立っている。
・・・
石川と黒崎は、ほぼ同じ時期に空手道場に入門した。
そんな中にあって、黒崎の才能と努力は群を抜いていた。己の時間のほとんどを空手に注ぎ込み、めきめき頭角を表していく。やがて二十歳にして全日本大会初出場初優勝という快挙を成し遂げる。
一方の石川はというと、当時は名もなき一選手に過ぎなかった。研究熱心ではあったが、才能も努力も、黒崎には及ばない。
そんな両者は、あまり付き合いがない。道場で顔を合わせても、ちょっとした言葉を交わす程度である。
だが石川は、黒崎に羨望と嫉妬の入り混じった感情を抱いていた。
・・・
「どしたの?」
英華の声に、石川は顔を上げた。
「えっ、何が?」
「今、すっごく怖い顔になってたよ」
その言葉に、石川は苦笑した。どうも、あの男が絡むと冷静でいられないらしい。
「何でもない。ちょっと、昔のことを思い出してた」
「昔のことよりさ、これ見なよ。この人、いいと思うよ。顔も綺麗だし、スタイルもカッコいいから人気でるんじゃない?」
言いながら、スマホの画面を指差す英華。
石川は、もう一度じっくりと画面を見つめる。確かに顔はいい。闘い方も面白い。おまけに隻腕だ。感動ポルノの路線もありだろう。
「ああ、悪くない。これなら、スターになれるかもな」
そう言うと、石川の頭が働き始める。
普段なら、まずは噛ませ犬的な役割の弱い選手をぶつけていく。そして勝ち星を重ね、自信を付けさせていく。これが、スター育成のセオリーである。
だが今回は、そんな手段を用いる気にはなれなかった。相手は、黒崎の弟子である。ならば、こちらも失礼のないような相手を用意する。それで敗北し潰れるようなら、そこまでの選手だったということだ。
既に石川の頭には、ある女子選手が候補に上がっていた。先日、偶然に見つけた選手である、まだデビューしたばかりだが、現在の戦績は三戦して三勝だ。しかも、三連続KO勝ちのハードパンチャーである。
その上、気性が荒く容赦のないタイプだ。相手が隻腕でも、気を遣うことなく本気で潰しにかかるだろう。この非情さは、完璧なヒールだ。まさにプロ向きである。
はっきり言って、あの隻腕選手の勝ち目は薄い。だが、奴に勝てれば本物のスターになれるだろう。
「黒崎、今回の俺は手加減せんからな。どこまでやれるか、きっちり見せてもらうぞ」
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