誇り

 リングは、異様な雰囲気に包まれていた。

 片側のコーナーには、ザ・マッドマックスがいる。まだキャリアは浅いが、上手さには定評のある外国人レスラーのコンビだ。モヒカンのウエズと、ホッケーマスクを被ったヒューマンガスのタッグチームは、パワフルな試合ぶりでファンからの人気も高い。今夜のメインイベントに抜擢されたのも、会社の期待の現れであろう。

 反対側のコーナーにいるのは、超異色のタッグチームであった。片方は、ジュニア・ヘビー級の中堅レスラー、グレート高津である。しかし、彼のタッグパートナーはというと……二メートル近い長身と百四十キロの体格に特注の黒いレオタードを着て、さらに金髪のショートカットにアイシャドーとルージュといういでたちなのだ。

 そう、彼はかつて引退したはずの名レスラー、ラジャ・タイガーである。ただし昔とは違い、自身が女装家であることを隠そうともしていない。むしろ、観客に積極的にアピールしているのだ。

 昭和や平成の初期ならば、有り得ない状況だ。プロレスが真剣勝負であると信じられていた時代には、ふざけた要素は徹底的に排除されていた。ストロングスタイル、それこそが真・国際プロレスのモットーだった。

 しかし、時代は確実に変化している。病室のベッドの上で試合のDVDを見ている元司は、複雑な想いを感じていた。




 メインイベントのゴングが鳴った。

 リング上では、小柄な高津が巨体のウエズに一方的に攻められている。ロープに飛ばされ、返って来たところにラリアットをくらう。その一発で、高津は吹っ飛ばされた。

 倒れたところをフォールされるが、辛くもカウント2で返す。ウエズはレフェリーに食ってかかるが、その隙に高津は立ち上がった。フラフラになりながらも歩いていき、ラジャにタッチする。

 元司は、改めて感心した。高津は本当に上手い。己の立ち位置というものをしっかりと自覚している上、技の受けも素晴らしい。今も、ウエズのラリアットをまともにくらい吹っ飛ばされながらも、体にダメージは残らない受け方をしている。

 小さな体で、スーパーヘビー級外国人レスラーの技を受ける……この大変さを、傍で見ていた元司はよく知っている。高津は暇さえあればトレーニングに励み、同時に整体やマッサージといった体のケアも欠かさなかった。

 これからは、その時間を家族サービスに使えるだろう。ただし、引退は元司が復帰してからだ。


 その高津に代わり、ラジャが登場した。途端に、客席から歓声が上がる。今夜は、伝説のレスラーの復帰戦なのだ。観客も他のレスラーたちも、ラジャのファイトに期待している。

 一方、外国人サイドは明らかに引いていた。リングの上のウエズは、両手を前に出しながら後退している。さすがの彼らも、自分たちより大きな女装レスラーが相手では勝手が違うらしい。もちろん、全ては演技だ。彼らは、自分たちが何を求められているかを、きちんと心得ている。

 ラジャの方は、嬉しそうに微笑んだ。両腕を広げ、体をくねらせる。さあ、いらっしゃい……とでも言いたげな様子だ。

 その途端、観客はどっと沸いた。元司も、思わずクスリと笑う。こんなスタイル、昭和の時代ならば絶対に許されなかっただろう。だが、今は観客に受け入れられている。

 今の時代、観客はプロレスをわかってくれている。格闘技とは違う、それを分かった上で楽しんでくれているのだ。かつて、プロレスは八百長だと言われていた。だが、それは完全な間違いだ。そもそも、プロレスは競技ではない。最初から、八百長など成立しようがない。




 リングの上では、ラジャが我が物顔で暴れまくっていた。ウエズを力任せのラリアットでぶっ倒し、ベアハッグを極める。ただし、普通のベアハッグではない。体をくねらせ、腰を振りながらのベアハッグだ。

 その時、背後からヒューマンガスが襲いかかる。ラジャの背中に蹴りを入れ、パンチを叩きこむ。さらに、ラジャの巨体を軽々と持ち上げた──

 今度は、観客から驚きの声が上がる。百四十キロのラジャを頭上高く挙げているのだ。ヒューマンガスはラジャを持ち上げ、マットに叩きつけた。

 すかさずフォールの体勢に入るヒューマンガスだったが、ラジャはあっさりと返す。逆にヒューマンガスを捕らえ、ボディースラムで投げた。その後、高津へと代わる。

 入って来た高津は、速い動きでヒューマンガスを翻弄する。四十二歳とは思えない動きだ。しかし、その肉体には限界が近づいている。本来ならば、去年の年末に引退しているはずだったが、元司が復帰するまで続けることにしたらしい。

 そして今回の試合は、高津にとって初めてのメインの試合である。ラジャが復帰戦のパートナーとして、高津を指名したという話だ。

 ラジャも高津も、本当にいい男だ。元司が女だったら、惚れていただろう。もっとも、彼にはそっちの気はない。


 リング上では、高津がマッドマックスに捕まっている。コーナーにて、外国人チームふたりがかりの攻撃を受けているのだ。高津は、もはや虫の息といった雰囲気である。

 その時、ラジャが乱入した。モヒカンのウエズに襲いかかる。だが、ウエズも負けてはいない。ラジャと取っ組み合い、場外へと落ちていく。

 一方、ヒューマンガスは高津をなおも痛めつけていた。パワースラムでぷん投げ、フォールの体勢に入る。

 その時、高津が動いた。瞬時に体勢を入れ替え、ヒューマンガスを丸めこむ。スモールパッケージホールドだ。一瞬の返し技で、高津はフォールする側へと回った。すかさず、レフェリーがカウントを入れる。


「ワン! ツー! スリー!」


 その瞬間、高津は観客に向かい片手を突き上げる。ヒューマンガスの方は面食らい、何が起きたのか把握できていない……という顔つきだ。

 だが、すぐにレフェリーへと食ってかかる。俺は負けてないぞ、というアピールだ。さらに、リング上の高津へと襲いかかる。

 高津は素早い動きでするりと躱し、場外へと逃れる。直後、同じく場外にいるラジャがマイクを掴んだ。高津とともに片手を突き上げながら、マッドマックスのふたりを怒鳴りつける。


「もう勝負はついたわ! 見苦しいわよアンタら!」


 その時、客席から歓声が沸き起こる。明らかに、ラジャたちを支持する声だ。

 観客たちは、生まれ変わったラジャ・タイガーを、メインイベントを任せられるレスラーとして認めてくれたのだ。時代は、確実に変わって来ている。プロレスというエンターテイメントの本当の楽しみ方を、観客の側もようやく理解できるようになってきた。

 今は、いい時代だ……元司は、心の底からそう思った。


 テレビを消し、元司は立ち上がる。軽く肩を動かしてみたが、特に問題はなさそうだ。ならば、ちょっくら外出してみるとしよう。

 元司は、のっそりと病室を出て行った。どうしても話さなくてはならない人物がいる。




 扉を開けると、そこはいつも通りの風景であった。さほど広くない倉庫の中は、もはや原型を留めていない。マットの敷かれた床、吊されたサンドバッグ、棚に置かれたミット……全て、ラジャと草太があちこち駆け回り、安く買い叩いて揃えた物らしい。

 そんな部屋の中央では、黒崎と草太がパイプ椅子に座り何やら話している。


「だから、中田さんがユリア連れて遊びに来るから……って、モッさん大丈夫かよ!?」


 草太が素っ頓狂な声を上げた。だが、それも当然だろう。元司は顔に包帯をしたままなのだから。彼はマルコとの試合で、眼窩底の骨が折れていた。また、打撲やら筋肉の損傷やら、あちこちにダメージを負い……本来ならば、あと一ヶ月は安静にしていなければならなかった。

 にもかかわらず、医者に無断でここに来てしまった。


「黒崎のおっさん、あんたに言い忘れていたことがあったよ」


 そう言うと、元司は黒崎に向かい、深々と頭を下げる。


「コーチしてくれて、ありがとう」


「ふん、礼を言われるほどのことはしていない。お前を勝たせることは出来なかったのだからな」


 黒崎は、表情ひとつ変えなかった。元司は思わず苦笑する。黒崎は、死ぬまで変わらないのだろう。

 時代が変化しても、変わらないものもある。それはそれで、ありがたいものだ……そんなことを思いつつ、元司は再び口を開く。


「あんたに聞きたいことがある」


「なんだ?」


「あんたは、見ず知らずの女を助けたために、十年もの間刑務所に入ったんだよな?」


 その問いに、黒崎の表情が僅かに変化した。


「ああ、そうだ」


「そのことを後悔してないのか?」


「ちょ、ちょっとモッさん!」


 草太が横から口を挟むが、黒崎は手を上げる。お前は黙っていろ、というジェスチャーらしい。


「後悔していない、と言えば嘘になる」


 答えた後、黒崎は目を逸らし下を向いた。

 ややあって、再び元司を見つめる。


「だがな、もう一度同じ場面に遭遇しても、俺は以前と同じ行動を取る。奴らを叩きのめす」


 その言葉に、元司はまたしても苦笑した。普通、バカは一度死ねば治る。だが、黒崎は並のバカではない。黒崎につける薬など、この世には存在しないだろう。

 だが、続けて放たれた黒崎の言葉には、さすがの元司も何も言えなかった。

 

「牙なき者を守るため、己の拳を振るう。それこそが、空手家の誇りだ。俺は、そう思っている」


 元司は無言のまま、じっと黒崎を見つめた。普段なら、とぼけた調子で横から茶々を入れるはずの草太も、神妙な面持ちで両者のやり取りを見ている。


「逆に聞きたい。荒川、お前ならどうしていた?」


 今度は、黒崎が尋ねた。


「そうだなあ……とりあえずは、相手がへとへとになるまで殴らせてやるさ。その隙に、女を逃がすよ。俺はプロレスラーだからな。相手の技を受けるのも、仕事のうちだ」


「なるほど」


 笑みを浮かべる黒崎に、元司は言葉を続けた。


「相手の輝きを消し、自分が輝く……それが格闘技だ。でも、プロレスは違う。相手を輝かせ、自分も輝く……それが、プロレスラーの誇りだ」


「ふふふ、モッさんカッコイイじゃん」


 ようやく、草太が話に入って来た。黒崎と草太は一見すると、水と油のようだ。しかし、根底では相通じる部分があるような気がする。だからこそ、ふたりは上手い具合に噛み合うのかもしれない。

 そんなことを思いながら、元司は草太の頭を小突いた。


「うるせえよ」


「あ、プロレスラーのくせに一般人を殴るのかよ。あんたん所の社長に言い付けるぞ」


 言いながら、草太はパッと離れてシャドーボクシングのような動きをした。まるで、コントの1シーンのようだ。

 元司は彼を無視し、再び黒崎の方を向く。


「そうだ。おっさん、ひとつ頼みがある」


「なんだ? 金ならないぞ」


「違う違う。俺は、この道場に入門したいんだ。週に一度くらい通わせてもらいたい」


 その時、黒崎の顔に驚愕の表情が浮かぶ。お前は何を言ってるんだ、とでも言いたげな様子だ。そんな彼に代わり、草太が言葉を返した。


「はあ? 入門? モッさん、また格闘技の試合やんの?」


「違うよ。もう格闘技なんかしねえ。俺は、ここが気に入った。それだけだ」


「へええ……おっちゃん、どうする?」


 ニヤニヤしながら、草太は黒崎の方を向いた。だか、黒崎はしかめ面だ。


「ここは、ちゃんとした道場ではない。いわば同好会のようなものだ。来る者は拒まない。好きにしろ」


 その言葉を聞き、草太は嬉しそうに元司を見た。


「モッさん、やったなあ。でも、忘れないで欲しいことがある。俺が兄弟子だってことをね」


 言いながら、草太は偉そうに立ったまま踏ん反り返る。その様子に、元司はプッと吹き出した。だが、草太はお構いなしだ。


「兄弟子の言うことは聞かなきゃなんないよ。とりあえず、コンビニ行って焼きそばパンとチョココロネ買って来て。あと、それから──」


「先輩面すんのは、俺のパロ・スペシャルを受けてからにしてくれよ。俺のパロ・スペシャルでギブアップしなかったら、お前を兄弟子と認めてやる」


 そう言って、ニタリと笑った。ただでさえ人相が悪いのに、包帯を巻いているため迫力が増しているのだ。さすがの草太も身の危険を感じたらしく、怯えた表情で首を横に振った。すると、黒崎が口を挟む。


「下らんことを言ってないで、さっさと病院に帰って怪我を治してこい。話は、それからだ」






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