決戦

「タカ、お前にひとつ頼みがある」


「な、何だよモトさん」


 神妙な顔つきの高津に、元司は低い声で言った。


「どんな展開になろうとも、絶対にタオルは投げるなよ。いいな」


「えっ……どういうことだよ?」


「いいから、タオルは絶対に投げるなよ」


 言った後、元司は他の三人の顔を見回す。


「お前らもだ。俺がくたばっても、絶対にタオルは投げるな」  




 マルコとの試合の直前、元司の控え室には四人の男が集まっていた。黒崎健剛、田原草太、ラジャ・タイガー、そしてグレート高津である。彼らは、大一番を控えた元司のセコンドに付くため集合していた。

 その場で突然、元司が言い出したのが、タオルを投げるな、というセリフである。

 それに答えたのは、やはり黒崎であった。


「そんなことを考える必要はない。荒川、お前は強いんだ。今のお前なら、マルコに勝てるだけの強さは持っている」


 そう言うと、黒崎は通路を指差す。


「さあ、時間だ。奴をさっさとブッ飛ばし、早く帰るとしよう」




 観客の視線を浴びながら、元司は花道を進んで行く。露払いを務めるのは、前回と同じくラジャだ。ただし、今回は完璧なまでに女装した姿である。彼(?)にとっても、一世一代の晴れ舞台なのかもしれない。

 元司はリングに上がり、マルコの登場を待つ。

 やがて、マルコが現れた。その途端、場内は割れんばかりの歓声に支配された。観客は皆、マルコが三流プロレスラーを一蹴するシーンを見に来ているのだ。

 格闘技マスコミの中には、こんなことを書いていた者もいる。


「同じ負けるにしても、若い琴岩竜やナークならば敗北を今後に活かすことが出来る。しかし中年の三流プロレスラーがマルコに負けたところで、何の意味もない。ただ、中年男が一流格闘家に無残な敗北を喫するだけの残酷ショーだ」


 だが元司は、こんな話を聞かされても不思議と腹は立たなかった。むしろ、今の状況には感謝している。

 この圧倒的に不利な状況下で、皆の予想をひっくり返すのだ。奇跡にも等しい大番狂わせを起こすことが出来れば、コーチをしていた黒崎をマスコミは放っておかない。

 そうすれば、黒崎は再び浮かび上がれる。世の中の理不尽さにより地の底に追いやられた黒崎を、このまま燻らせておくわけにはいかないのだ。

 この勝負、どんな手を使っても勝たせてもらう。




 やがて、試合が始まった──


 マルコは両拳を構え、じりじりと前に出て来る。その表情は平静なものだ。真っ直ぐ元司を見据え、少しずつ間合いを詰めて来る。

 一方の元司は、マルコのプレッシャーの前に完全に圧されていた。リングの上で相対すると、全くの別人だ……いや、自分と同じ人間だとすら思えない。彼の制空圏に入ったが最後、一撃必殺の打撃が飛んで来るのだ。この独特の感覚は、映像を何度観ても理解できるものではない。マルコと、実際に向き合った者でない限りは……。

 このマルコのプレッシャーの前に、元司は下がっていくばかりだ。本人すら気づかぬうちに、いつの間にかコーナーへと詰められている──

 その時、黒崎の声が聞こえた。


「荒川! まだだ!」


 その声に、元司ははっと我に返る。マルコから受けるプレッシャーに呑まれ、視野狭窄に陥っていたのだ。まだ、攻撃を受けるタイミングではない。

 ここから作戦開始だ。


 不意に、マルコがジャブを放つ。牽制のジャブのはずなのに、強烈な威力だ。まともに食らえば、一発で試合をひっくり返すことが可能だろう。元司は慎重に、パーリングで払い落とす。

 直後、マルコの右ローキックが放たれた。その右ローは、元司の左太ももに炸裂する。

 その瞬間、左足全体にジーンと痺れるような感触が走る。ついで、強烈な痛みが太ももを襲う。たった一発の蹴りで、このダメージとは……元司の表情が歪んだ。

 すると、向こうのセコンドが騒ぎ出した。英語で何やらがなりたてる。直後、またしてもマルコの右ローが襲う──

 鈍い音が、場内に響き渡る。元司は、足を引きずりながら後退していく。

 そこに、マルコが追い打ちの右ローを放つ。

 その時、元司の動きが変化した。後退していくかと思われた彼だったが、いきなり前進し間合いを潰す。

 と同時に、元司は腕を振り上げる。クロールのような動きで、右腕をぶん回した。右拳は、大きく回転しマルコの顔面へと飛んでいく。

 元司の、捨て身のオーバーハンドパンチが放たれたのだ──


 あと、ほんの数センチ踏み込みが深ければ……あるいは元司のリーチが数センチ長ければ、そのオーバーハンドはマルコの顔面を捉えていたかもしれない。

 その数センチが足りなかったため、渾身のカウンターパンチは命中しなかった。マルコは、際どいところで元司の拳を躱す。

 しかし、元司の攻撃は終わっていなかったのだ。彼はそのまま、マルコの左手首を掴む。

 さらに左手を伸ばし、マルコの右手首を掴んだ──

 想定外の動きに、さすがのマルコも混乱した。己の手首を掴む手を、必死で振り払おうとする。

 その瞬間、元司は飛び込んだ。

 百五キロの全体重をかけた元司のぶちかましが放たれた。彼の額が、マルコのみぞおちに炸裂する。そう、みぞおちに頭突きを叩き込んだのだ。

 うっ、と呻く声が聞こえた──


 ・・・


 三ヶ月前──


「いいか、プロレスラーに出来て格闘家に出来ないことがある。演技だ」


 黒崎の言葉に、皆は首を傾げた。


「おっちゃん、何を言ってんだよ?」


 尋ねる草太。


「格闘家は、基本的に攻撃を受けても表情を変えないよう指導されている。痛い表情をすれば、判定に響くからな。だからこそ、相手の表情の変化には敏感だ」


「どういうこと?」


 今度はラジャが尋ねた。


「つまり、奴らは相手の表情の変化を見逃さない。ところが、プロレスラーは常日頃から演技をしている。効いているふりなど、たやすいものだ」


 そこで黒崎は言葉を止めた。その場で構え、左ジャブを突きながらの右ローのコンビネーションをして見せる。


「マルコは基本的に、左ジャブと右ローを軸にして試合を組み立てる。荒川はそのローキックを受け、効いたふりをする。右ローが効いたと判断すれば、奴はさらに右ローを打ってくるはずだ。便利屋、ちょっと来い」


 いきなり黒崎に振られ、草太はきょとんとなった。


「えっ? 俺?」


「そうだ。ここに立て」


 草太は、不安そうな面持ちで黒崎の前に立つ。すると黒崎は、とんでもないことを言い出した。


「便利屋、俺に右ローを打ってこい」


「えええっ!? 何で俺が?」


「いいから来い。右ローを打つだけだ」


 言いながら、黒崎は両拳を上げて構える。草太は仕方なく、右のローキックを打った………もっとも、明らかに手加減している蹴りだったが。

 黒崎は、じろりと睨む。


「便利屋、本気でやれ」


「いや、でもさ──」


「いいから打って来い」


 その言葉に、草太は顔をしかめた。

 次の瞬間、彼はローキックを放つ。だが、黒崎は一瞬にして前進し、ローキックの間合いを潰す。と同時に、右の拳が放たれた──


「荒川、マルコの右ローに合わせ、カウンターのオーバーハンドパンチを叩き込む。まずは、これが第一段階だ」


 冷静に語る黒崎。だが、周りは唖然となっていた。彼の今の動きは、まるで手品のようである。草太に至っては、鼻先に黒崎の拳を突きつけられた状態なのだ。

 しかし、黒崎の話は終わっていない。


「だがな、これが簡単に当たるなら苦労はしない。マルコは、紛れもなく超一流の格闘家。奴は、このオーバーハンドパンチを躱すだろう。そこで、次の一手だ」


 言った直後、黒崎は草太の両手首を掴む。


「今のパンチが外れたら、すぐに奴の手首を掴みにいけ。その後は、これだ」


 黒崎は、頭突きのジェスチャーをして見せる。


「頭や顔に頭突きを当てたら反則を取られる。だが、胸への頭突きならば反則は取られない。しかも、みぞおちに頭突きが入れば、息が詰まるようなショックがある。マルコといえど、動きは止まるはずだ。その一瞬に、勝機を見出だすしかない」


 ・・・


 黒崎の作戦は、全て上手くいった。元司はマルコに組み付き、強引に引き倒す。頭突きのダメージが残っていたマルコは、あっさりと転がされた。

 直後、元司は素早く動く。寝技の攻防でもっとも大事なのは、技ではなくポジション取りだ。いかに優れた技を持っていようとも、その技に適したポジションにいなければ無意味だ。

 元司はサイドポジションに押さえ込み、コツコツと拳を落としていく。マルコはその打撃を嫌い、腕で顔をガードする。

 その時、元司の手がマルコの腕を掴む。腕を絡めロックし、両足で挟み込む。腕ひしぎ十字固めの体勢だ。こうなれば、確実にいける──

 だが、想定外の事態が起きた。腕ひしぎ十字固めが極まりかけた瞬間、マルコは体を捻り体勢をずらした。

 さらに体を回転させ、関節技から脱出する──

 これは、腕ひしぎ十字固めから逃げる技術である。バンザイのような腕を上げた体勢から、くるりと関節技を抜けるのだ。日本の格闘家の名前から、宇野逃げとも呼ばれているテクニックである。さすがの元司も、この展開は想定していなかった。


「んだとぉ!」


 吠えながら、元司はなおも組み付こうこうとする。対するマルコは、素早い動きで立ち上がった。

 だが、元司も止まらない。立ち上がったマルコめがけ、凄まじい勢いで殴りかかっていく。

 その拳は、マルコの顔面に炸裂した。

 すると、マルコの表情が変わる。凄まじい形相で、元司へとパンチを浴びせる。だが、元司にも引く気配はない。足を止めたまま、狂ったように殴り続ける。

 もはや、これは格闘技ではない。路上の喧嘩と同じだ──


 予想もしなかった展開に、場内は割れんばかりの歓声に包まれている。観客は総立ちになり、ふたりの漢のぶつかり合いを見つめている──

 しかし、元司には何も聞こえていなかった。強烈なパンチを何発も受けたが、今は痛みも感じていない。目の前にいる者を叩き潰す、そのために拳を振るっていた。


「俺はぁ、プロレスラーだ!」


 叫びながら放った拳が、またしてもマルコの顔面に炸裂した。マルコの鼻血が、元司の顔に振りかかる。だがマルコの拳も、ほぼ同時に元司の顎を掠めていた。

 不意に、元司の足から力が抜ける。彼はそのまま、ガクンと崩れ落ちた。すかさず、上からマルコの拳が降って来る。

 元司は、必死で組み付いていく。だが、マルコは赤鬼のごとき形相で突き放し、なおもパンチを振るう。

 だが、両者の間にレフェリーが割って入る。と同時に、ゴングが打ちならされた。

 同時に、元司の意識も消えていく──




 どのくらいの時間が経ったのだろう。

 ぼやけている視界に、数人の男たちの顔が映った。見覚えのある顔だ。そういえば、試合はどうなったのだろうか。


「モトさん、大丈夫か!?」


 誰かの声が聞こえる。元司は、そちらを向いた。


「試合……どうなった?」


「お前の、TKO負けだ」


 答えたのは黒崎だ。その時になって、ようやく意識がはっきりしてきた。TKO(テクニカルノックアウト)負けということは、誰かが止めたということだ。

 レフェリーか? それとも……。


「試合を止めたのは、誰だ?」


「俺だよ。俺がタオルを投げた」


 答えたのは高津であった。元司の目を真っすぐ見つめ、もう一度繰り返す。


「あのまま続けてたら、モトさんは確実に──」


 その時、元司の手が伸び高津の襟首を掴んだ。


「俺は言ったよな! タオルは投げるなと! てめえ、なんで投げやがった!?」


 凄まじい形相で迫る元司だったが、高津は怯まなかった。小さな体で、元司を下から睨み返す。


「モトさん、あんたは格闘家なのか?」


「えっ……」


「違うだろ! あんた、プロレスラーだろうが! プロレスラーが格闘技やって怪我してどうすんだよ! あんた、これからもプロレスやるんだろ!」


 怒鳴りつける高津に、元司は何も言えなかった。そう、確かに自分はプロレスラーだ。大きな怪我さえしなければ、まだプロレスを続けられる。

 だが、目の前の高津は? 

 黙りこむ元司に、高津はなおも続ける。


「あんた、まだプロレス出来るだろうが! だったら、俺の分までプロレスやってくれよ! 頼むから、こんなとこで怪我しないでくれよ……プロレスやりたくてもな、出来ねえ奴だって大勢いるんだよ!」


 思いをぶつける高津に、元司は何も言えなかった。ラジャや草太も同様である。黒崎ですら、無言のままだった。






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