マルコというファイター
黒崎は、己の人生を変えた事件を語り終えた。
その時、タイミングを計ったかのようにラジャが入って来た。倉庫内を見回し、複雑な表情を浮かべる。
「なんだか、おかしな空気になってるわね……」
「空気なんかどうでもいいだろうが! モッさん、マルコをぶっ倒してくれよ! あの石川の鼻をへし折ってくれ!」
叫ぶ草太に対し、答えたのは元司ではなかった。たった今、己の半生を語り終えたばかりの黒崎だった。
「悪いがな、荒川に勝ち目はない」
冷静に語る黒崎を見て、元司は思わずクスリと笑ってしまった。確かに、その通りなのだ。
あれから、マルコ・パトリックの試合をチェックしてみた。だが、はっきり言って勝つ見込みは0だ。
以前、吉田勝頼が言っていたのだ。あんたらのセメントが通用する時代じゃない、と。その言葉は正しい。マルコは、総合格闘技の世界で勝ち抜いて来た男である。自分とは、最初から何もかもが違う。
しかし、この男には引く気配がない。
「んなもん、やってみなきゃわからねえだろうが! モッさん、あんただってそう思うだろ!」
草太は、なおも言い続ける。だが、元司は首を振った。
「いいや、無理だな」
「はあ!? やる前から負けることを考えるバカがいるかよ──」
「ならば、お前にもわかるように教えてやる。いいか、マルコ・パトリックの打撃は、ナークと同レベルだ。しかもマルコは、ナークより二十キロ重い。あのふたりには、とんでもない差があるだろう」
口を挟んだのは黒崎だ。しかし、草太はなおも食い下がる。
「だから何だよ! やりもしねえうちから──」
「便利屋、いい加減にしろ。マルコは、俺が今まで見てきた中でも最強に近い男だ。今から、お前でもわかるように教えてやる」
そう言うと、黒崎はリモコンを操作する。
テレビの画面に、ふたりの男が映っている。片方はマルコ・パトリックだ。もう片方の男は、マルコよりも筋肉が盛り上がっている。特に首の横の僧帽筋や、背中の広背筋の発達は素晴らしい。しかし、ウエストはきっちり締まっている。
こういった海外の選手を見ると、日本人の限界を意識せざるを得ない……そんなことを思いながら、元司は画面を見ていた。
「対戦相手はジャック・コールドマン、学生時代にレスリングのチャンピオンだった男だ。今から、このふたりが試合をする。お前たちも、よく見ておけ」
黒崎が言った直後、ゴングが鳴った。
画面に映る両者は、リングの中を回っている。お互い、相手の腹の内を探っているかのごとき目付きだ。
小刻みに体を揺らし、左右に動くジャック。一方のマルコは、じりじり間合いを詰めていく。そのプレッシャーの前に、ジャックはなかなか踏みこめずにいるようだ。リズミカルに体を揺らしながらも、打撃の届く間合いに入ろうとはしない。
「何なの、こいつ」
草太が呟いた時、マルコの右足が走る。右ローキックがジャックの太ももに炸裂し、バチーンという音が響き渡った。ジャックは小刻みに左ジャブを打ちながら、さっと後退する。マルコはすかさず追っていくが、ジャックは円を描くように動いて追撃を許さない。
間合いは離れた。打撃の届かない間合いへと……ジャックは再度、円を描くように動く。その顔には焦りがある。
マルコの方は冷静そのものだ。時おり牽制の左ジャブを突きながら、じりじり前に出ていく。
ついに我慢できなくなったのか、ジャックがタックルを放った。振りかぶるような右のロングフック……のフェイントの直後、低い姿勢で飛び込んでいく──
見ている元司は、思わず唸る。かつて全米レスリングチャンピオンというだけのことはあり、今のタックルは画面越しに見ても素晴らしい。タイミング、スピード、思い切り、全てが一流レベルだ。
仮に元司がこんなタックルを食らえば、一瞬で倒されていただろう。だが、マルコは違っていた。ジャックがタックルを放った瞬間、両足を思い切り後ろに投げ出す。同時に全体重をかけ、ジャックの上に覆い被さっている。
その体勢からジャックの首に左腕を回し、右手でガンガン脇腹を殴りつける──
「なにこれ……」
呟いたのは草太だ。格闘の知識がない彼ですら、今の一瞬の攻防には圧倒されたらしい。
だが、元司も同じ気持ちであった。あの、完璧に近いタックルを捌いてみせたマルコ。もはやキックボクサーではない。完璧なる総合格闘家だ。
ジャックは持ち前のレスリングテクニックを活かし、不利な体勢から素早く立ち上がる。だが、マルコはさらに追撃する。左右のストレートを放ちながら、逃げるジャックを追う──
すると、ジャックはキレのあるパンチを打ち返した。ここで勢いに乗らせるとマズイ。そう判断し、いったん流れを断ちきるため敢えて打ち合いを選んだのだ。ジャックの体格は、マルコより大きい。そんな相手との正面切っての打ち合いは、さすがのマルコでも避ける……はずだった。
しかし、マルコの表情は変わらない。両手を前に突き出し、ジャックの体を強く押す。
ジャックはバランスを崩し、僅かによろめいた。
次の瞬間、マルコの右足が放たれた──
マルコの右足は、ジャックの側頭部へと炸裂する。直後、ジャックは銃で撃たれたかのようにバタリと倒れた。
それを見たマルコは、無表情のまま追撃する。倒れたジャックにのしかかり、拳を降り下ろす。そこには、感情の激しい動きはない。しなくてはならない作業をこなす、そんな顔つきであった。
直後、レフェリーが止めに入る。ゴングが打ち鳴らされ、マルコは表情ひとつ変えずに立ち上がる。
勝利したというのに、マルコは泰然自若としていた。まるで、映画『ターミネーター』に登場するアンドロイドのようだ──
「これで、お前も理解できただろう」
試合が終わり、黒崎は重々しい口調で言った。だが、草太はまだ納得していないらしい。
「はあ!? 何のことだよ!」
「まだわからないのか。今、倒されたジャックは……レスリングの全米チャンピオンであり、ブラジリアン柔術の茶帯だ。つまり、寝技の技術は荒川より遥かに上のレベルだ。はっきり言って、プロ野球選手と高校球児くらいの差がある」
「えっ……」
草太の表情が、みるみるうちに曇っていく。
横で聞いている元司は、黒崎の言葉に微かな苛立ちを覚えた。もっとも、彼の言っていることは間違いではない。ジャックの今のタックルは、スピードもタイミングも完璧に近い。しかも、ジャックは元司よりパワーもある。レスリングテクニックも、元司より上のばずだ。
にもかかわらず、マルコはジャックに勝利した。文字通り、一蹴してみせたのだ。
元司レベルのレスリングテクニックでは、マルコに通用しない。また寝技のテクニックに関しても同様である。つまりは、マルコに勝てる要素はどこにもないのだ。
そんなことを思いながら、ふたりの会話を聞いていた元司だった。
だが次の瞬間、草太の言葉に気持ちが動く──
「おっちゃん、あんた悔しくねえのかよ」
「何がだ」
「石川の野郎に、あんなこと言わせといていいのかよ!? おっちゃんは、俺の知ってる中で一番強いオヤジだよ! なのに、石川にあんなこと言われるなんておかしいだろうが! おっちゃんは犯罪者でも何でもない──」
「いや、俺は紛れもなく犯罪者だ」
「はあ? 何でだよ?」
「前にも言ったはずだ。この日本は法治国家だ。どのような理由があれ、暴力を振るい相手を怪我させれば法で罰せられる。それは当然のことだ。そうでなくては、弱者の権利は守れん」
黒崎の口調は静かなものだった。だが、その冷静さが、草太をさらに怒らせたらしい。憤怒の形相で何やら言いかけたが、今度はラジャが動いた。今まで無言のまま成り行きを見ていたが、巨体に似合わぬ素早さでスッと立ち上がり、草太の肩を掴む。
「草太、そこまでにしなさい。今は、そんなことを言い合うために集まったんじゃないでしょ」
そう言うと、ラジャは黒崎の方を向いた。
「悪いけど、アタシはモトさんに勝って欲しいのよ。ねえ黒崎さん、試合まであと三ヶ月だけど……モトさんが勝つ確率は、本当にゼロなの?」
「はっきり言うが、ゼロに近い」
即答する黒崎に、ラジャはニッコリと微笑んだ。
「ゼロに近い、ってことは……ゼロではない、ってことよね?」
「ああ。だが、ゼロと大して変わらん。恐らく、百回やって一回成功するかどうかの、際どい賭けだ。しかも、これは完全なる奇襲攻撃……一度失敗すれば、それで終わりだぞ」
そう言うと、黒崎は元司の方を向いた。
「荒川、全てはお前次第だ。お前が勝てないと思っているなら、この勝負は絶対に勝てない。だが、お前が勝てると信じるなら……奇跡を起こせる可能性はある。何もない川底から、ひとすくいの砂金を拾うに等しい確率だがな」
「モッさん、やってくれよ。マルコを倒してくれ」
言ったのは草太だ。真っ直ぐな目で元司を見つめ、懇願するような表情を浮かべている。そこに秘められたものを、元司は無視することが出来なかった。
「その前に、ひとつ聞きたい。草太、なんでそこまでムキになるんだ? 石川に恨みでもあるのか?」
気がつくと、そんな質問が口から出ていた。
「確かに、石川の野郎はムカつくよ……でも、それ以上に、おっちゃんの名誉を回復させてやりてえんだよ! おっちゃんは、最高の空手家だってな!」
草太の表情は、真剣そのものである。その熱さの前に、元司は圧倒されていた。黙ったまま、彼の話を聞く。
「もし、モッさんがマルコを倒せば……そりゃ大ニュースだろうが! そん時は、おっちゃんだって注目を浴びるだろ! 三流プロレスラーを、世界最強の格闘家に勝たせた名コーチとしてさ!」
熱く語る草太に、元司は何も言えなかった。三流プロレスラー……どう考えても、誉め言葉ではない。むしろ、バカにしているような言い方だ。
しかし、不思議と怒りは感じなかった。代わりに、形容の出来ない熱い何かが、彼の五体を駆け巡っていた。
その時、ラジャが口を開く。
「それ、面白そうなアイデアね。楽しいんじゃないの。世の中から虐げられし男の、執念の大逆転劇。最高にそそられる展開よ。アタシの大好物だわ」
言いながら、ラジャは元司の顔を見つめる。
「やってくれるわよね、モトさん」
「モッさん! 頼むよ!」
草太も叫んだが、元司はそのふたりを無視した。黒崎に、睨むような視線を送る。
当の黒崎は、先ほどと全く変わらない表情だ。全てを諦めてしまっているかのようにも見える。
その態度が、元司をさらに苛つかせた。
「あんた、さっき俺は勝てないと言ったな。そう言われると、俺は勝ちたくなる性分なんだよ。何をすりゃいいんだ?」
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