能見唯湖編

出会い

 はげ上がった頭、ずんぐりした体つき、ゴリラを連想させるようないかつい顔立ち。その男、お世辞にも魅力的とはいえない外見だ。

 にもかかわらず、彼の動きに唯湖は魅了されていた──



 夕暮れ時の街中を、ひとりの女性が歩いていく。

 見た目の年齢は、二十代といったところか。背は高く、一般の成人男性と同じくらいだろう。手足は長く、モデルのような体型だ。

 目鼻立ちの整った美しい顔だが、頬はこけており顔の肉は削げ落ちている。見るからに不健康な痩せ方をしていた。長袖のTシャツにデニムパンツといういでたちだが、服から覗く首も異様な細さである。足も細く、棒切れのようだ。

 しかも、左手の袖はぶらぶらしている。つまり、彼女には左手がないのだ──

 そんな彼女に、纏わり付いて来ている男がいた。


「なあ唯湖ユイコちゃん、待ちなよ」


 馴れ馴れしい態度で、さっきからしつこく話しかけている。身長は百七十センチほどで、唯瑚とほぼ同じくらいだ。彼もまた、痩せた体つきで長袖のTシャツを着ている。シャープな顔付きで女性にはモテそうな風貌だが、彼もまた不健康そうな風貌だ。金色に染めた髪をいじくりながら、唯湖の横に並び歩いている。

 唯湖は男を無視し、ひたすら進んでいく。その顔には、険しい表情が浮かんでいた。男からの言葉を聴覚から遮断することに全力を投入している、そんな雰囲気が感じられた。

 と、男はニヤリと笑う。不意に彼女の腕を掴み、力ずくて引っぱる。唯湖は不意を突かれ、強引に引きずられた。

 ふたりは、そのまま路地裏へと入っていく。


「ちょっとマコト! いい加減にしてくんない! あんたとは、縁切ったんだよ!」


 唯湖は何とか立ち止まり、彼を怒鳴り付ける。すると、誠と呼ばれた男は、ポケットから何かを出した。

 それは、切手くらいの大きさの小さなビニール袋だった。中には、透き通った粉末が入っている。

 もう二度と、見たくなかったものだ──


「なあ、欲しいんだろ?」


 言いながら、誠は嫌な笑みを浮かべる。ビニール袋を、目の前に突き出してきた。

 その瞬間、唯湖の体は震え出していた。やめる、と固く誓ったはずだった。なのに、いざ現物を目の前にすると……あの感覚を思い出してしまう。

 意思が、壊れていく──


「無理すんなって。な、いいからやっちまいなよ」


 誠の優しく囁く声が聞こえる。さらに、ビニール袋をちらつかせた。目の前で、軽く振ってみせる。粉末が、中で揺れているのがはっきり見えた。

 それに対し、唯湖はあらがうことが出来ない。手が勝手に動き、粉末に手を伸ばす。

 その時、野太い声が響き渡る。


「邪魔だ。どけ」


 その声に、唯湖はハッとなった。そちらに、ゆっくりと顔を向ける。

 数メートル先に、ひとりの中年男が立っていた。確実に四十歳を過ぎている。ずんぐりした体型で、背は唯湖と同じか少し高いくらいだろう。頭ははげ上がっており、ゴリラのような怖い顔立ちだ。黒いトレーナーを着ており、真っすぐこちらを見ている。

 目が合った瞬間、唯湖は異様なものを感じた。この中年男、内にとんでもない何かを秘めている。その何かに触れたら、爆発しそうな雰囲気すら漂わせている……。

 もっとも、誠の受けた印象は違うもののようだった。


「はあ? おっさん、何言ってんだよ?」


 言いながら、顔を歪めた。中年男へと、ゆっくり近づいていく。強面の男を、恐れていないらしい。

 中年男はといえば、無表情のまま語りかけてくる。


「俺は、この先に用がある。邪魔だから、失せろ」


「この先はな、行き止まりなんだよ。道に迷ったんじゃねえのか? ケガしねえうちに、さっさと消えろ」


 凄む誠だったが、中年男に引く気配はない。


「俺は、その行き止まりの壁に触れるのを日課にしている。何か文句があるのか?」


 そんな意味不明の日課があるとは思えない。確実に、ふたりの間に割って入るため無理やり捻り出したセリフだろう。

 誠は、じろりと彼を睨んだ。


「はあ? ふざけてんのかよ? おい、マジでケガすんぞコラ」


 凄んだが、中年男に恐れる素振りはない。


「やめておけ、ケガするのは、お前の方だ。右手をケガしたら、お前の大好きなひとり遊びが出来なくなるぞ」


 ぷっ、という声。唯湖の口から出たものだ。ひとり遊びが、何を意味しているのかは彼女にもわかる。こんな状況にもかかわらず、思わず吹き出していた。

 対照的に、誠の表情は険しくなった。唯湖の笑い声が、彼のプライドをいたく傷つけたらしい。


「このジジイ、死ななきゃわからねえらしいな!」


 喚くと同時に、右拳を振り上げた。思い切りぶん回す──

 その瞬間、中年男は僅かに顔を動かした。少なくとも、唯湖にはそうとしか見えなかった。

 誠の拳が、中年男の顔面に炸裂する……直後、悲鳴をあげたのは誠の方だった。


「い、いっでえぇぇ!」


 情けなく叫びながら、己の右拳を抱えて崩れ落ちる。

 今、誠の右拳は確かに中年男の顔に当たっていた。ただし、額にである。額の骨は、硬く分厚い。素手で殴り慣れていない素人の拳が額に当たれば、逆に痛めてしまうことも珍しくないのだ。


「だから言っただろう。これで、当分はひとり遊びが出来なくなった。さっさと帰って、治療しろ」


 冷静な声で、中年男は言い放つ。殴られたはずなのに、何事もなかったかのような様子だ。

 すると、誠は顔を上げた。


「てんめえ……ぶっ殺してやる!」


 怒鳴ると同時に、ポケットに手を入れた。何かを取り出したかと思うと、不器用な手つきでいじくる。

 それは、フォールディングナイフだった。刃渡り十センチほどだろうか。先は鋭く尖っており、刃は鈍く光っている。切るにも刺すにも使えそうだ。

 誠は、そんなナイフを左手で構えている。目には、狂暴な光があった。完全にキレてしまったのだ。唯湖には、はっきりとわかった。

 この男、本当に刺すつもりだ──


「ちょっと誠! やめなってば!」


 思わず叫ぶ唯湖だったが、中年男の表情は変わらなかった。


「そうか、どうしてもやる気なのだな。それを抜いた以上は、俺も容赦はせんぞ」


 言ったかと思うと、顔つきが変わる──


 中年男の右足が動いた。弾丸のような速さで、彼の爪先が誠の左手首を打つ。

 誠の左手に、強烈な衝撃が走る。鞭で打たれたかのような激痛だ。弾みで、ナイフが吹っ飛ぶ。

 直後、中年男がさらに舞う──

 放った右足を着地させたかと思うと、間髪を入れずにまた右足を振るう。今度は、右上段回し蹴りを放ったのだ。

 右足の甲が、誠の側頭部を打ち抜く──

 誠が意識を失い倒れるのと、中年男の体が綺麗に一回転したのは、ほぼ同時であった。

 唯湖はといえば、今しがた目の前で見たものが理解できず呆然となっていた。頭がはげ上がり、ずんぐりした体型の中年男が、チンピラの誠を一瞬で倒してしまったのだ。

 現実では見たこともない、見事な技で──


「おっちゃん! 何をやってんだよ!」


 不意に声が聞こえ、唯湖はようやく我に返る。そちらを向くと、何とも奇妙な二人組がこちらに歩いて来た。

 片方は、まだ若い青年だ。年齢はおそらく二十代だろう。中肉中背で、顔は悪くないが軽薄そうな感じである。青いツナギ姿で、こちらを睨んでいる。

 その後ろにいるのは、背が高くガッチリした体格の大男だ。肩幅は広く、胸板も分厚い。その上、顔の方も厳つい。短髪で、額には生々しい傷痕がある。完全に、堅気とは思えない人相だ。唯湖は、思わず後ずさる。

 しかし、ツナギ男は彼女のことなど見ていなかった。その表情が一変する。


「ちょっと! おっちゃん何やってんだよ!」


 言ったかと思うと、慌ててこちらに駆けてくる。しゃがみ込むと、倒れている誠を助け起こした。

 

「おい、大丈夫か?」


 声をかけると、誠はようやく目を開けた。寝ぼけたような表情で、周りを見回す。

 大男、そして中年男を見るなり、怯えた表情になる。


「う、うわあ!」


 弾かれたような勢いで立ち上がると、よろよろしながらも急ぎ足で去っていった。


「お、おい、あれ大丈夫かよ?」


 若者が不安そうに聞いたが、中年男は取り合わない。


「知らん。さっさと帰るぞ」


 ぶっきらぼうな口調で答え、中年男はぷいと向きを変えた。

 その時、唯湖の口から声が出る──


「待ってください!」


 すると、中年男は立ち止まった。じろりと唯湖を睨む。


「どうした?」


 素っ気ない態度だ。唯湖は、深々と頭を下げる。


「助けてくれて、ありがとうございました」


「えっ、どゆこと?」


 若者が、困惑した様子で口を挟んだ。しかし、唯湖は構わず中年男に尋ねる。


「あの、今のは空手ですか?」


「ああ、空手だ」


 中年男は、無愛想な態度で答える。すると、若者が唯湖に話しかけてきた。


「何かわかんないけどさ、このおじさん空手五段だよ。はっきし言って超強いよ。興味があるなら、ちょっと来てみない? この先に、おっちゃんか指導員やってるジムがあるからさ」


「えっ、空手五段?」


 唯湖は驚愕の表情を浮かべる。若者の方は、偉そうな態度で頷いた。


「そうだよ。すんげー強いよ。だから──」


 言葉の途中で、唯湖は己の左側の裾をまくって見せる。途端に、若者はピタッと口を閉じた。

 唯湖の左腕は、肘から先が数センチほどしかなかった。指と手のひら、さらに手首のあるはずの部分が欠けている。

 そんな腕を見せ、彼女はそっと尋ねた。


「あの、こんな腕でも出来ますか?」


 だが、中年男は何も答えない。無言のまま、唯湖をじっと見つめている。その左腕ではなく、彼女の瞳を真っすぐ見ていた。

 唯湖は、なおも尋ねる。


「こんな私でも、強くなれますか?」


 答えたのは中年男ではなく、若者だった。


「も、もちろんだよ! なあ、おっちゃん!」


 しかし、中年男の口から出たのは──


「知らん」


 その途端、若者が中年男の襟首を掴んだ。大声で叫び出す。


「おーい! あのなあ、おっちゃんがそんな態度だから、会員が増えないんだろうが!」


「知らんから、知らんと言ったまでだ」


 中年男の態度はにべもない。若者に素っ気ない態度で言い放つと、再び唯湖の方を向いた。


「あんたは、何のために強くなりたいのだ? 自分の中で、それがはっきりわかっているのか?」


「そんな小難しいことなんざ、どうでもいいだろうが! とにかく、会員を増やさないといけないだろうが!」


 怒鳴る若者だったが、中年男は彼のことなど見ていない。ずっと唯湖から目を放さなかった。

 唯湖の口から、言葉が漏れる。


「わ、私は……」


 次の瞬間、涙が溢れる。脳裏に、今さっき見たものが蘇った。あの、ビニール袋に入ったもの。透き通った粉末だ。

 もし、この中年男が来なかったら……唯湖は、再び誘惑に屈していただろう──


「私は、強くならないといけないんです」


 それだけ言うと、彼女はその場に泣き崩れていた。

 絶対にやめる、と誓ったはずだった。注射器もガラスパイプも捨て去り、売人の連絡先もスマホから消去した。あれ・ ・に関するもの全てを、身の回りから消した。

 これからは、まともに生きる……そう決意したはずだった。なのに、いざあれ・ ・を目にしたとたん、全身が震えたのだ。同時に、脳を貫く快感が蘇る──

 自分の弱さが、惨めさが、たまらなく嫌だ。いっそ、このまま死んでしまいたい。

 すると、それまで一言も発しなかった大男が、初めて口を開いた。


「何か事情があるみたいだな。ここじゃ何だから、ちょっと場所を変えようか」





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