引退の時
試合が終わった二時間後、彼らは奇妙な場所に来ていた。
「おい、ここで何の話をするんだよ……」
元司は、うんざりした表情で言った。
周囲は、女装した男たちの歓声に包まれている。そう、ここはゲイバー『虎の穴』なのだ。ふたりは並んで、カウンター席に座っている。
「いや、ここがちょうどいいかと思ってな」
言いながら、高津は真剣な顔つきになった。直後、思いもかけぬ言葉が出る──
「モトさん、俺は今年いっぱいで引退するよ」
その言葉に、元司は何も言えなかった。黙ったまま、カウンターを見つめる。周囲からは野太い嬌声が聞こえていたが、その騒がしさはかえってありがたいものだった。
ややあって、高津は再び口を開いた。
「俺も、もう四十二だよ。体も、昔みたいには動かなくなってきた。歴戦のダメージも残ってる。俺みたいなロートルがいつまでもうろうろしてたら、業界のためにならねえ」
「何を言ってんだよ。
「あの人は別格だ。俺らとは違うよ」
高津は、冷めた口調で言葉を返した。
確かに、高津の言う通りなのだ。長龍は他団体のレスラーであり、六十近い年齢である。かつては一時代を築いたが、今の動きは全盛期の頃とは比べ物にならない。筋肉は落ちているし、動きも鈍い。
それでも、長龍は客が呼べる。老舗の団体であるSWFにおいて、未だにメインイベンターを務められるのも……その名前だけで、客を集められるからだ。
しかし、グレート高津は違う。彼の年齢は元司より下だが、同じ時期に入団していた。つまり、この男は元司と同期であり、共に真・国際プロレスの前座を務めてきたのだ。
小さな体でありながら、リング内を動き回っていた高津だったが、メインの試合に抜擢されることはなかった。元司と同じく、前座もしくは中堅どころという扱いを受けていたのだ。
それでも、高津はレスラーを続けてきた。かつて真・国際プロレスから大量に選手が離脱した時にも、元司と共に前座の試合をこなしていた。
元司にとって、いわば戦友である。
「俺には家族がいる。最近では、万が一のことを考えるようになっちまった。もし、俺が下手くそな奴と試合して壊されたら……いや、それどころか殺される可能性だって、ないとはいえねえからな」
淡々とした口調で、高津は語る。
元司は何も言えなかった。確かに、事故の可能性は0ではない。特にグスタブのようなマイペースの外国人レスラーを相手にすると、シナリオにないはずの動きをすることがある。結果、不測の事態に発展することもあるのだ。
若い頃の元司は、怪我など考えたこともなかった。正直いうなら、今もあまり深く考えたことはない。怪我が怖くて、プロレスラーが出来るか……そういう思いがどこかにあった。もちろん、相手には怪我をさせないよう注意している。
しかし、高津には家庭がある。その上、二児の父でもある。仮に試合中の事故で、半身不随にでもなってしまったら……家族にとって、大きな痛手になってしまうのだ。
高津は、プロレスラーとしては小柄な体格である。怪我のリスクも、他のレスラーよりは高いのだ。
例えばプロレスのパンチやキックは、決定的なダメージを与えないように打っている。対戦相手には、翌日も試合に出てもらわないと困るからだ。
かといって、手加減すればいいというものではない。力を加減しつつも、速いスピードで相手を殴り、そして蹴る。でなければ、観客に迫力が伝わらない。
怪我をさせず、それでいて痛そうに見えるギリギリのラインの打撃……これは、本当に難しい。格闘家のように、ただ強い打撃を放てばいいというものではないのだ。
これは打撃だけに限らない。投げ技もそうだ。マットに優しく落としていたのでは、迫力が伝わらない。だからこそ、レスラーは相手を思い切り投げる。ただし、怪我をさせないように気を配っている。また受ける方も、きっちりと受け身をとり怪我をしないように投げられる。この加減こそが、プロレスの上手さなのだ。
ところが、高津のように小さく軽いレスラーの場合、他のレスラーより受けるダメージは大きい。同じ感覚で技をかけようものなら、怪我のリスクが高くなるのだ。
それでも若いうちなら、受けの上手さでカバーできた。しかし、年齢を重ねることにより……高津の肉体には、隠しきれないダメージの痕がある。このままだと、いつか取り返しのつかない事態になるかもしれない。だからこそ、引退という道を選んだのだ。
もちろん、四十二歳という年齢は転職するにはギリギリのラインだろう。だが、高津は敢えてそちらを進むことにした。
全ては、家族のためだった。
「タカ、お前が選んだ道だ……俺がどうこう言う権利はねえ。頑張れよ。俺には何も出来ねえが」
元司には、それしか言えなかった。正直いうなら、高津には辞めて欲しくない。なじみの深い戦友が、またひとりプロレス界を去る。元司にとっては、たまらない気分だ。
しかし、小さな体で真・国際プロレスの前座を支えてくれた高津に、これ以上の無理はさせられない。
それに最近、高津はぼやいていたのだ……前座のプロレスラーという職業を、子供にどう説明すればいいのか分からない、と。
元司には分からない悩みである。だが、それもまた引退を決意させたひとつの要因なのかもしれない。
「モトさん、すまねえな。俺も、もう限界だよ。せめて、モトさんの半分くらいの頑丈さがあればな」
しんみりした口調で高津が言った時、不意に目の前に皿が突き出された。見ると、オムライスが入っている。
「おい、なんだこりゃ? 俺は頼んでねえぞ」
高津が言うと、ママのラジャが切なげな表情で彼を見下ろした。
「いいのよ、アタシのおごりだから。これくらいしか出来ないけど、食べてってよ」
その言葉に、高津はうつむいた。この男は、ラジャとは因縁がある。
かつてラジャが引退した時に、高津は激怒し控え室で暴れたのだ。さらに酔っ払った挙げ句にラジャの家に乗り込んでいこうとして、元司に取り押さえられている。
その時、高津はこう叫んでいた。
「ラジャの野郎、ふざけやがって! 俺にあいつくらいのガタイがあれば、死ぬまでレスラー続けてやるのによ!」
高津にしてみれば、恵まれた体格と才能を持ちながらも、その力を充分に発揮することなく引退していくラジャが、たまらなく歯痒かったのだろう。実際、高津がこの店に普通に通えるようになったのは、つい最近のことである。
自分に、もっと体格があれば……高津は口にこそ出さないが、その思いをずっと抱えたままプロレスを続けていたのだ。
全ては、プロレスを愛していたから出来たことである。そして今、ようやくプロレス界を去る決意をしたのだ。
大盛りのオムライスを食べる高津を横目で見ながら、元司は人生の皮肉について思いを馳せていた。
プロレスを愛していたが、プロレスの神には愛されなかった高津。
プロレスの神に愛されていたが、プロレスを愛していなかったラジャ。
自分は、果たしてどっちなのだろう。
・・・
「いや、まいったなあ」
ホテルの寝室にてガウン姿で、わざとらしく呟いている石川和治。
ベッドの上では、ネグリジェ姿の女がスマホをいじっている。年齢は、二十代後半といったところか。美しい顔立ちではあるが、キツい目付きは意思の強さと知性をも感じさせる。
「こりゃあ、どうしたもんかなあ……」
石川は、もう一度呟いた。すると、女がようやく顔を上げる。
「どしたの和くん?」
五十代の半ばである石川を和くんと呼ぶ、この時点でふたりの関係がどういったものかは、誰でもわかるであろう。
「
冗談めいた口調で、石川はぼやいた。
金と手間隙をかけずに儲ける……この部分だけを聞くと、世間の底辺を蠢くチンピラの意気がった戯れ言にも似ている。少なくとも、多少なりとはいえビジネスを知っている人間の言葉とは思えない。
しかし石川は、単なるチンピラとは違う。よく回る頭と行動力と多方面の人脈を持ち、さらに運が味方している。これまでの彼は、やることが全て上手くいっていた。
そして今回も、幸運が味方する。
「だったらさ、いっそのことどっかのアイドルみたいに一般公募しちゃえば?」
英華の言葉に、石川は怪訝な表情になった。
「一般公募? なんのこっちゃ?」
「だからさ、マルコの対戦相手を一般公募するの」
「はあ!? 英華ちわ~ん、そりゃいくらなんでも無茶だよ。マルコの相手になる奴なんか、いるわけないじゃない」
石川は、思わず苦笑する。マルコの相手になるような選手が、一般人の中に埋もれているはずがない。仮に実現させたとしても、何の話題にもならないだろう。マルコに秒殺されて終わりである。
だが、続けて英華の口から出た言葉に、石川の表情が一変する。
「確かロッキーも、そんな映画だったじゃない。偉大なるチャンピオンがさ、無名の選手にチャンスを与えるみたいな。同じことやったら、そこそこウケるんじゃない? 今の世の中、閉塞感が強いしさ」
その瞬間、石川はガバッと起きた。
「チャンスか……なるほどなあ。Dー1は他の格闘技と違い、無名の人間にも広くチャンスを与える。こりゃあ、面白いかもしれんぞ」
石川の頭脳が、恐ろしい速度で計算を始めた。
Dー1チャレンジという名前で、大々的に挑戦者をつのる。キャッチコピーは「Dー1のリング上に生まれ育ちは関係ない。格差も存在しない。あるのは弱肉強食の掟のみ」でいこう。
まずは、一般公募して書類選考だ。そこで選ばれた者数名に、トーナメント形式で試合をさせる。優勝した者を、年末にマルコと闘わせるのだ。
他の格闘技との明確な差別化を図り、さらにアメリカンドリームならぬDー1ドリームという幻想を与えられる。その上、仮に失敗したとしてもダメージは少ない。何せ、ギャラがただ同然の素人をリングで闘わせるだけけなのだから。
ほとんどノーリスクのギャンブルだ。反面、上手くいった時のリターンは大きい。
「英華ちゃん、冴えてるなあ。だから好きだよ」
この英華という女は、かつてグラビアアイドルだった。しかし今では、頭の回転の早さと喋りの上手さとを買われ、グラビア以外の仕事も増えてきている。もちろん、石川という男の後ろ楯もあっての話だが。
言うまでもなく、彼女は格闘技に関してはド素人である。その英華の何気ない思いつきがきっかけとなり、日本の格闘技界は大きく動いていく──
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