とんでもない話
東京の外れにある真・国際プロレスの道場には、かつて大勢の若者たちが汗を流していた。コーチ役のレスラーの指示により、スクワットや腕立て伏せ、さらには受け身の練習やスパーリングなどといったハードな合同練習をしていた。昔は、合同練習こそが主であったのだ。
しかし、今は変わってしまった。ある者は中央に設置されたリングの上で所狭しと動き回っており、ある者はウォームアップ代わりにヒンズースクワットをしている。元司もまた、隅でウエイトトレーニングに励んでいた。
百キロのベンチプレスを十回挙げた後、元司はさらにプレートを追加する。
「モトさんには、これじゃあ軽すぎるだろ。最高で何キロを挙げたんだっけ?」
補助を務める高津が、軽い口調で尋ねた。
「確か、若い頃は百七十キロを三回挙げたな」
「本当かよ……さすがだなあ」
「いや、今は無理だよ。それに、今は高重量には挑戦しないからな」
苦笑しながら、元司は答えた。ベンチプレスは体の見栄えを良くしてくれるし、また上半身の筋力を高めてくれる。外見の逞しさが要求されるプロレスラーには、必須のトレーニングといっていい。
もっとも年齢を重ねてくると、使用する重量にはこだわらなくなってくる。
若い時は、一回しか挙がらないような重さに挑戦することもあった。しかし、高重量を扱うとなれば怪我のリスクも高くなる。さらに、夜は試合もある。トレーニングの段階で疲労しすぎて、試合で動けないようでは本末転倒だ。したがって、軽めの重量で高回数……というトレーニングの仕方が多くなる。
それに、プロレスラーには持久力も必要だ。ベンチプレスで高重量を挙げるのに必要なのは速筋……つまりは、速く動く筋肉である。しかし、プロレスラーは遅筋……すなわち、動きは遅いが持久力に優れた筋肉も鍛えなくてはならない。
その両方をバランスよく鍛えてこそ、初めてプロレスが出来るのだ。
「モトさん、社長が呼んでますよ」
ベンチプレスを終え、ダンベルで肩のトレーニングをしていた元司に、小杉が不安げな顔で言ってきた。
「社長が? つーか、あの人来てんのかよ」
元司も、怪訝そうな表情になる。
現在の真・国際プロレスの社長はライアン
かなりのエリートであり頭のキレる男だが、同時にかなりの変人でもある。社員やレスラーたちから、陰でバカボンと呼ばれていた。言うまでもなく、バカなボンボンが縮まったものである。
もっとも、バカボンと言えど呼ばれれば行かなくてはならない。元司は、すぐさま事務所に向かった。
「やあモトちゃん、元気い?」
新木は軽い口調で言いながら、肩をバンバン叩いて来た。
この男、年齢は三十歳であり、顔立ちは欧米人である母親の血を濃く受け継いでいる。肩書きは社長だが、デニムパンツにTシャツというラフな格好でオフィスをうろうろしているような男だ。
正直にいうなら、パッと見の印象は六本木あたりをフラフラしている頭の空っぽな欧米人……といった雰囲気である。
「はあ、元気です」
面食らいながら、元司は頭を下げる。どうも、この男は苦手だ。嫌いというわけではないが、絡みづらいものを感じる。
もっとも、この男に呼び出されるというのは、確実にただごとではない。
「ところでモトちゃん、聞いたんだけどさ……グスタブを絞め落としちゃったんだって?」
ヘラヘラ笑いながら、ライアンは聞いてきた。
元司は思わず顔をしかめる。まさか、バカボン社長にまで伝わっていようとほ。
「は、はい」
「モトちゃあん、困るんだよね。あいつ呼ぶのに、かなり金かかってるんだよ。あいつ、帰国するとか言っててさ。なだめるのに苦労したよ」
ライアンはヘラヘラ笑っているが、その目は笑っていない。これは、かなりの額の金が動いたのだろう。
「すみませんでした」
深々と頭を下げる元司に、ライアンはポンポンと頭を叩いた。
「まあ、いいよ。すんだことは仕方ない。ただ、一応はグスタブを納得させなきゃならないからさ。モトちゃん、悪いけどしばらく謹慎してくんない? ほんのちょっとの間だけさ」
くんない? と提案しているような言葉を用いてはいるが、それが命令であるのは明白だ。元司は頷くしかない。
「分かりました」
「ありがとう。でさあ、謹慎ついでに、もうひとつモトちゃんに頼みがあるんだよね」
「は、はい。なんでしょうか?」
「今度、Dー1のリングに上がって欲しいんだよ。だから、そっちのトレーニングしといて」
その言葉には、さすがの元司も絶句した。このバカボンは、いったい何を考えているのだろうか。
Dー1とは、国内で最も大きなフルコンタクト空手団体である道心会館が主催する総合格闘技のイベントだ。テレビ放送も決まり、今や飛ぶ鳥を落とす勢いである。
そんなDー1に、中堅のヒールレスラーである自分に出ろというのか?
絶句している元司に、ライアンは軽い口調で語り出した。
「ここだけの話だけど、実は道心会館の石川ちゃんが、近いうちに勝負に打って出るらしいんだよ」
「勝負?」
「うん。石川ちゃんてば、チャンピオンであるマルコ・パトリックの対戦相手を一般公募するんだってさ」
「い、一般公募?」
またしても、元司は唖然となった。
マルコ・パトリック……元司も、名前だけなら聞いたことがある。キックボクシング仕込みの打撃技を中心にした一般人にも分かりやすいスタイルで、総合格闘技チャンピオンの座についたのだという。
そんなマルコの対戦相手を、一般人から公募するとは……まともな競技では、絶対にあり得ない話だ。
「そうなんだよ。聞いた時には、石川ちゃんも無茶するな、と思ったけどさ、考えてみたらウチらにとってもチャンスなわけだよ。そう思わない?」
チャンス? どこがチャンスなのだろうか?
元司の頭は、さらに混乱してきた。マルコの試合は見たことがないが、それでも一流のファイターだということは理解している。
そのマルコと自分が闘って、勝ち目があるとは思えない。
「モトちゃん、考えてみてよ。これは異業種へと進出するチャンスなんだよ。今はね、プロレスだけやってりゃいいって時代じゃないの。あらゆる媒体を利用し、ウチらの名前を売り込んでいかないと……モトちゃんがマルコと闘えば、それだけで会社の宣伝になるんだよ」
「宣伝、ですか」
ようやく、元司も合点がいった。会社の宣伝のため、マルコと闘わされるわけだ。何とも切ない話だ。もっとも、こちらには会社に負い目がある。仕方ない。
そんな元司の態度を見て、ライアンはにっこり笑った。
「やっとわかってくれたかい。ちなみに向こうにも、モトちゃんがエントリーすることは伝えてあるから。あとは、やるだけだよ」
「えっ」
自分の返事を待たずして、勝手にエントリーしていたのか……何ともふざけた話である。だが、今さら断ることなど出来ない。
元司は、グスタブの件で借りを作ってしまった立場である。ライアンも、その点を見越して事前にグスタブのことを口にしたのだ。
吉田勝頼の言葉ではないが、昭和の時代とは違うのだ。今は控え室で外国人レスラーと喧嘩などしようものなら、間違いなくペナルティを課せられる。
これで済むのなら、仕方ないだろう。
「ただね、ひとつ問題があるんだよ。実はね、マルコと闘う前に予選があるんだよね」
「予選、ですか……」
「そうなんだよ。まずは、書類選考や面談で四人くらいにまでに絞るらしいんだよ。まあ、モトちゃんなら面談は抜きでもいいだろうけどね。で、その四人で予選のトーナメントをやるってわけさ」
「なるほど」
元司は頷いた。
実は、かつてプロレス界でも似たようなことをやったのだ。アマチュア格闘家を、人気レスラーと闘わせるというイベントである。
もっとも人気レスラーと闘わせる前に、予選と称した道場内のセメントマッチで全員潰したのであるが。マスコミが一切入らない異様な雰囲気に参加者は完全に呑まれてしまい、実力の半分も発揮できず敗退したらしい。
他団体の話ではあるが、えげつないやり方だ……と感じたのを、今でも覚えている。もっとも、それも仕方ない話だ。万が一にも、スター選手に傷を付ける訳にはいかない。
「まあ、そりゃそうだよね。そこらの格闘技オタクや脳内達人みたいなのを野放図にリングに上げたら、死人が出るかもしれない。それはそれで宣伝になるかもしれないけど、今の御時世だとリスクの方がでかいよね」
物騒な話題を、ヘラヘラした態度で語るライアン。この男は、根っからの商売人なのだと思った。それも、ただの商売人ではない。死人が出ることすら、ビジネスに利用する……錬金術師と言った方が的確かもしれない。
「そんなわけだから、せめてマルコと当たるとこまでは頑張ってよ」
そう言って、ライアンはにっこり微笑んだ。
二時間後、元司は『虎の穴』にいた。もっとも、ここは今は喫茶店である。昼間は喫茶店、夜はゲイバー……この店は、そういう変則的な営業活動をしていたのである。
「どしたのよモトさん。こんな時間から、珍しいじゃない」
巨体を揺るがしながら現れたのはラジャである。昼間はめったに客の前に姿を現さないのだが、お気に入りが来ている時は別だ。
「なあ、ラジャ」
「ん、何?」
「マルコ・パトリックって知ってるか?」
元司は神妙な表情で尋ねた。
「ああ、マルコね。試合は観たことあるけど、そんなことより……いい男ね、あれは」
「そ、そうか。で、強いのか?」
「当たり前じゃない。つーか、大丈夫? なんで、そんなこと聞くの?」
言いながら、元司の顔を覗きこむラジャ。元司は恐ろしい圧力を感じ、思わず顔を背けた。
「だ、大丈夫だ」
「なら、いいんだけど……なんか今日のモトさん、変よ」
そう言うと、ラジャは怪訝な表情を浮かべる。
元司は苦笑した。目の前の女(?)は、巨体に似合わず妙に鋭いのだ。
「ちょっと謹慎を食らっちまってな。しばらくは、おとなしくしてるよ」
すました様子で、元司は答えた。もっとも、頭の中はマルコとの闘い……というより、Dー1のリングでの闘いで占められている。正直、未だにふわふわしていて現実感がない。
長い間、プロレスをやってきた。リングの上で殴り合い蹴り合い、さらに取っ組み合ってきた。時には、ガチの喧嘩になりそうになったこともある。
だが、真剣勝負の格闘技となると話は別だ。筋書きのない闘いを、観客の前で行う。約二十年ぶりだ。
元司はふと、若かりし時のことを思い出していた。
・・・
小学生の時から、体が大きかった元司。小学六年生の時には百六十センチを超えており、喧嘩では負け無しだった。
中学に進学すると、元司は空手を習い始めた。すると恵まれた体格と気の強さで、めきめきと頭角を表していく。高校生になる頃には黒帯を取得し、全日本を狙える逸材として期待される。
元司は、空手家としては器用なタイプではない。しかし、打たれ強く根性がある。持ち前の頑丈さを活かし、突かれようが蹴られようが怯まず前に出ていく。相手に下段回し蹴りと正拳突きの連打を叩き込み、力ずくで叩き潰す……というスタイルであった。
高校を卒業した後は、アルバイトをしながら空手を続ける。やがて小さな地方大会で優勝し、全日本大会にも出場するようになる。
空手家として、順調に進んでいた彼の人生。しかし突然、全てが崩れ去る。誰よりも尊敬し目標としていた先輩の空手家が、傷害事件を起こして破門されてしまったのだ。
それを知った元司は何もかも嫌になり、空手を続ける気力を失ってしまう──
・・・
あの頃は、空手に全てを捧げるつもりでいた。プロレスに興味はなく、むしろ軽蔑していたのである。あんなのは格闘技じゃない、八百長だと。仮に異種格闘技戦でプロレスラーと闘うことになったら、筋書きを無視してボコボコにしてやろうと考えていたこともあった。
そんな自分がこの歳になり、プロレスラーとして格闘家と真剣勝負をすることになろうとは。
運命とは、なんと不思議なものだろう。
「ちょっとモトさん、聞いてんの?」
ラジャの言葉に、元司は顔を上げた。
「あ、ああ。すまねえ、ちょっと考え事をしててな。で、何だよ?」
「アンタ、何か隠してるでしょ?」
ラジャの声は、ひどく静かなものだった。元司は、思わず下を向く。
「な、何を言ってんだよ──」
「ごまかさないで」
またしても、低い声が飛んで来た。本当に、この男は鋭い……女の勘、いやオネエの勘とでも言おうか。
「悪いな、今は言えねえんだよ」
元司には、それしか言えなかった。社長のライアンからは、Dー1への参戦の口外を禁じられている。正式な発表前には、誰にも言えない。
ラジャの口の堅さは分かっている。それでも、これだけは言えない。
「そう、わかった。じゃあ、これ以上は何も聞かない」
それだけ言うと、ラジャはぷいと横を向いた。この男とて、かつてはプロレス業界にいた。言えない秘密がいくらでもあることは、よく知っている。
元司の抱えているものがプロレス絡みであることに、すぐ気づいたのだ。
「ありがとよ」
「いいのよ。アタシも、モトさんにはずいぶん世話になったしね」
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