番狂わせ
控え室にて、元司はじっと出番を待っていた。
先ほど、元司は『Dー1チャレンジ』の派手な開会式に参加した。興行として、プロレス界が見習うべき点は多々ある。
しかし、これを格闘技と呼んでいいのだろうか? という疑問を感じたのも確かだ。
プロレスは、基本的にはショーである。しかし、格闘技は競技でありスポーツのはずだ。断じてショーであってはならない……という信念を、若い頃の元司は抱いていた。それゆえ、プロレスを毛嫌いしていた部分もあった。
では、このDー1は何なのだろう? ショーなのか、それとも格闘技なのか。
「荒川、リラックスしろ。まずは深呼吸だ」
険しい表情の元司に、黒崎が声をかけてきた。
今日、元司のセコンドを努めるのは、黒崎、草太、ラジャの三人である。黒崎とラジャはともかく、草太がなぜいるのだろうか。若干、腑に落ちない部分はある。
「おっちゃん、何か栄養ドリンクでも買ってこようか?」
その草太は、さっきから落ち着かない様子でそわそわしている。元司よりも、緊張しているような雰囲気だった。
まあ、それも無理からぬ話だ。何せ、周囲にはいかつい格闘家たちがうろうろしているのだ。さすがに琴岩竜は別の部屋のようだが、元司らは無名の格闘家たちと同じ控え室にいる。
皆、それぞれ思い思いのスタイルで自分の出番を待っていた。シャドーやミット打ちをしている者がいるかと思うと、不気味な表情で静かに出番を待っている者もいる。
さらには、血だらけの顔で控え室に帰って来る者までいる。草太にしてみれば、異世界に来てしまったような気分なのだろう。
そんな草太に、黒崎が声をかける。
「まず便利屋、お前は落ち着け。荒川、お前は体をほぐしておけ。ただし、やり過ぎるな」
「言われなくても、分かってるよ」
不満げな表情で言い返すと、元司は軽く肩を動かす。肩というのは、複雑な動きをするが故に重要な部位だ。軽く動かすことにより血流を促し、関節を温めておく……これは地味だが、大事な手順でもある。
「モッさん、琴岩竜の試合が始まるよ」
不意に、草太の声が聞こえてきた。元司は動きを止め、テレビへと視線を移した。
テレビでは、琴岩竜とナーク・ギアッソンリットが向かい合っている。琴岩竜は、百六十キロ近くあった体重を百三十キロまで落としたらしい。筋肉の隆起が目立つ体になっている。こうして見ると、本当に大きい。
逆に、ナークの方は九十キロに増量したという話だ。もっとも、パッと見た目にはわからない。こちらも筋肉質だが、琴岩竜に比べると明らかに細い。
そんな両者は向かい合い、レフェリーによる試合前の説明を受けている。琴岩竜の表情は堅く、ナークはリラックスした雰囲気だ。
少しの間を置き、ゴングが鳴らされる。いよいよ、トーナメント第一試合の始まりだ。
ナークは、軽快な動きで琴岩竜の周囲を回る。リラックスした表情だ。動きも軽やかである。
琴岩竜の方はというと、じりじりと間合いを詰めていく。両拳を顔の高さに構えているが、ナークとは対照的に、構えも動きも堅い。
不意に、ナークの左足が動いた。直後、ビシリという鋭い音が鳴る。彼のミドルキックが炸裂したのだ。
しかし、琴岩竜は全く意に介していない。平気な顔で、徐々に間合いを詰めていく。ナークのミドルキックは、何のダメージも与えていないように見える。
「やるな」
不意に、黒崎が声を発した。その言葉に、草太が反応する。
「ああ。凄いね、さすが相撲取りだ──」
「違う。タイ人の方だ」
「えっ?」
意外そうな顔をする草太に、黒崎は頷いた。
「そうだ。あのミドルキックは、牽制にも関わらず速く重い。しかも、増量したにもかかわらず、軽やかなフットワークだ。Dー1のルールや対戦相手に合わせ、きちんと闘い方を変えていける……あれは、厄介な男だぞ」
「でも、体格差はどうしようもないだろ。あいつは寝技も知らないし、組みつかれたら終わりだ。琴岩竜の勝ちは動かないよ」
元司の言葉に、黒崎はくすりと笑った。
「俺なら、タイ人が勝つ方に賭ける」
「んだと? どういう意味だ?」
元司の表情が変わり、黒崎を睨み付ける。すると、黒崎はポンポンと肩を叩いた。
「まあ、落ち着け。あのタイ人が勝ってくれた方が、セコンドに付く俺としてはありがたい」
そう言うと、黒崎はテレビに視線を移す。つられて、元司もテレビの方を向いた。
ナークは距離を取り、琴岩竜の周囲をぐるぐる回っている。時おり、速く鋭いミドルキックを放つ。それだけでなく、前蹴りやローキックなども混ぜてくる。タイ人特有の、リズムが読みづらい攻撃だ。
琴岩竜の方は、どうにか間合いを詰めようとしていた。しかしナークのステップが早く、常に動いているため捕らえられない。その上、琴岩竜の動きも堅さが取れていない。慣れないリング、さらに久しぶりの実戦ゆえに緊張しているのか。
苛立ったのか、琴岩竜はいきなり正面から突っ込んで行った。相撲の突っ張りのように、左右のパンチを繰り出しながら強引に前進していく──
両者はもつれ合い、ロープ際で組み合った。琴岩竜がしっかりと押し込んでいるが、ナークはなかなか倒れない。巧みに重心を移動させ、首相撲の体勢で持ちこたえている。
「さすがだな……」
黒崎が感嘆の声を上げた。元司も、それに関しては同意せざるを得なかった。体格差があり、パワーも段違いなはずの琴岩竜を、ナークは首相撲の技術を使い上手くコントロールしているのだ。並の選手ならば、あっさりと投げられているはずだ。
膠着状態と見たのか、レフェリーが両者を分ける。その時、琴岩竜の額から血が垂れてきた……。
「えっ? 何であいつ流血してんの?」
「肘だ。琴岩竜が組みつきに行った瞬間、額に肘を叩きこんだ。さらに、組んでいる時にグローブのふちで傷を擦り、流血させたのだ」
すっとんきょうな声を出した草太に、黒崎が重々しい口調で答える。その言葉に、草太は目を丸くした。
「えっ、肘は反則じゃないの?」
そう、今回のルールでは肘打ちは反則となっている。草太の疑問も当然だ。
しかし、黒崎は即答する。
「反則だ。しかし、今のは偶然を装って肘を入れている。偶然なら反則にはならない。ムエタイ出身のボクサーが、たまにやる手口だ」
リングの上では、先ほどと変わらない状況が続いている。ナークが軽やかなフットワークでリングを動き回り、琴岩竜はじりじり間合いを詰めていく。
額の傷から、またしても血が垂れてきた。琴岩竜は、左手で目に入った血を拭う。
その時、ナークが動いた。一瞬にして間合いを詰め、右足を放つ──
ナークの右足は綺麗な線を描き、琴岩竜の側頭部へと飛んでいく。
絵に描いたような見事なハイキックが、琴岩竜を捉えていた──
次の瞬間、琴岩竜の目から光が消えた。そのまま膝から崩れ落ちる。土下座のような姿勢で、マットに倒れていた。
もし傷から血が垂れていなければ、ガードくらいは出来たかもしれない。最悪ハイキックをもらったとしても、体格差や琴岩竜のタフさを考慮すれば、ダウンせず耐えられた可能性もありうる。
だが、琴岩竜の左目には血が入り、視界が完全に塞がれていた。それゆえ、ナークのハイキックが見えていなかったのだ。見えない打撃は、通常の数倍の威力を発揮する。
もっとも、観ている者たちにそんな事情が分かるはずもない。場内はしんと静まり返っていた。観客のほとんどが、何が起きたか把握できていないのだ。
ナークは何事もなかったかのように、倒れた琴岩竜を見下ろしている。だがセコンドの声に気付き、追い討ちをかける。琴岩竜のそばにしゃがみこむと、上から拳を落としていく。
その時、ようやくレフェリーが止めに入る。同時に、両手を振った。と、ゴングが打ち鳴らされる。
ナークの勝ちが決まったのだ。
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