おかしな面々
流九市の外れにある古い倉庫跡には、異様な空気が漂っていた。まだ昼間だというのに、中年男たちの野太い声が響いているのだ。
「はい荒川さん、ジャブ! ストレート!」
その声に合わせ、元司は男の構えたミットにパンチを打ち込む。だが、男は不満そうに首を振った。
「ダメダメ! 大事なのはスピードだから! もっと引きを速くして!」
このミットを構えている男は
ところが、試合中に受けた一発のパンチが彼の人生を変える。試合後、右目に異変が生じる。視界が欠けているのだ。
医者の診断によれば、網膜剥離とのことであった。当然ながら、ボクサーを引退せざるを得なくなってしまう。
その後、中田は荒れた生活を送った。一時は、ヤクザの組員になっていたが……紆余曲折の末にヤクザから足を洗い、今は地方の村で農業に携わっている。
そんな中田だが、ラジャや便利屋の草太とは何やら因縁があるらしい。コーチの要請を受け、快く引き受けたのだという。
もっとも、かつてプロボクサーだったからといって、トレーナーとしての技量は怪しいものだ。少なくとも、わざわざここに来るほどの価値はないだろう。
にもかかわらず、元司は指導を受けている……それは、ここに来れば黒崎と会えるからだ。
ミット打ちの合間に、元司は荒い息を吐きながら尋ねた。
「なあ、こんなことして何になる? 俺は打撃で勝負する気はない。組み付いてからの寝技で勝負するんだよ──」
「最低限の打撃の攻防だけは出来るようになっておけ。でないと、組み付くことすら出来ん。組み付く前に、勝負が終わる」
黒崎の口調は、有無を言わさぬものだった。元司はチッと舌打ちし、彼を睨みつける。
「あんたに何がわかるんだよ? あんたが刑務所で囚人やってる間に、世の中は変わってんだよ。今はな、昭和じゃねえんだ」
「ちょっと待てよ。あんただって、充分に昭和のオヤジじゃないか」
横から口を挟んだのは草太だ。この青年もまた謎である。どこかの三流ホストのような顔立ち、ひょろっとした体つき、ヘラヘラした雰囲気……黒崎とは、完全に真逆のタイプだ。
なのに、黒崎と行動を共にしている。黒崎もまた、この軽そうな青年を気に入っているらしい。
もっとも、元司は草太のことなど何も知らないし、知りたくもない。さらに言うなら、気に入られたくもない。じろりと睨むと、彼は慌てて目を逸らした。
その時、黒崎が声をかける。
「荒川、そろそろ休憩するか」
元司は、その場に座り込んだ。ペットボトルの水を飲み、改めて周りを見回した。
かつてヤクザだったボクシングトレーナー、若い便利屋、さらに傷害罪で逮捕され刑務所にいた空手家。なんともカオスな状況だ。まるで、昭和の格闘技マンガのごとき風景である。
こんな連中と一緒に、世界トップレベルの格闘家に挑む……やはりマンガだ。どう考えても、まともではない。
「モッさん、初っぱなの対戦相手は何者なの?」
不意に、草太が聞いてきた。馴れ馴れしい奴だ、などと想いながら、元司は首を横に振る。
「本田とかいう武術家だ。何者かは知らん」
「本田? なんだそりゃ? 武術家って何なの?」
またしても聞いてきた。本当に、馴れ馴れしい男である。通常なら、元司は怒鳴りつけていただろう。敬語を使え、と。
ところが、草太が相手だとそんな気にはなれない。なぜかは知らないが、この男の失礼な口調を受け入れてしまっている。
「俺が知るかよ。暇があるなら、本人に聞いてこい」
元司としては冗談のつもりで言ったのだが、草太には通じていなかった。
「それもそうだね。じゃあ、偵察がてら行ってくるかな」
言いながら、草太は立ち上がる。だが、黒崎が彼を制した。
「待て待て。今は、ネットという便利なものがあるだろうが。まずは、調べてみろ」
「ああ、それもそうだな」
うんうんと頷き、草太はスマホを取り出した。だが、元司は大して関心がない。正直、本田という武術家からは大した印象を受けなかった。体格的にも貧弱で、なぜDー1に参戦できるのかすら分からない。はっきり言って、調べる価値すら無いように思われる。
その時、草太がすっとんきょうな声を上げた。
「おいおい、何だよこりゃあ! ちょっと、笑えるから見てみなよ!」
草太の言葉に、元司はスマホを覗きこんでみた。黒崎や中田も、一緒に覗きこむ。
画面には、本田が映し出されていた。羽織袴姿で、画面の中央にて仁王立ちしている。場所は道場であろうか。床は畳であり、壁は板である。
やがて、本田が手招きした。すると、ひとりの若者が前に出てくる。細身の気弱そうな青年だ。
青年は、本田に向かい構えた。気合いと共に、殴りかかって行く……が、本田は意に介さず、スッと両手を前に突き出す。
その瞬間、青年は後退した……目に見えない何かに引っ張られるかのように、腕をばたばたさせながら下がって行ったのだ。
最後に、本田は画面に向かい一礼した。
「おいおい、ちょっとひどくないかい? これ、完全に仕込みだよね?」
呆れたような草太の声。だが、黒崎はかぶりを振った。
「いや、これは仕込みではない。この男は、本当に飛ばされているのだ」
「えっ? 本当かよ黒崎さん?」
言ったのは中田である。その問いに、黒崎は頷いてみせた。
「俺の推理が正しければ、この本田という男の技により、弟子は本当に飛ばされている」
黒崎は、同じ言葉を繰り返した。それを聞いた元司は首を捻る。この男は何を言っているのだろう。刑務所生活でボケてしまったのだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあ、本田はモッさんにもこの技をかけられるの?」
慌てたような草太の言葉に対し、黒崎は首を横に振った。
「いや、それは無理だろう。荒川には、あの技はかからん」
「ど、どうゆうこと?」
今度は、混乱した様子で尋ねる草太。なんとも表情豊かである。愛すべき素直な性根が感じられる青年だ。この素直さが、黒崎に気に入られたのだろうか。
本音を言えば、元司も草太を嫌いにはなれない。ただ、イラつきはする。
「簡単に言うと、洗脳のようなものだ」
「洗脳?」
「そうだ。この手の道場に入門するような者は、ほとんどが暴力に慣れていない。そんな者が、道場で手をかざしただけで飛ぶのを目撃する……その光景は強烈だ。たちまち深層心理に入り込み、その人間を支配してしまう。この先生の技は、触れずに人を飛ばすことが出来る、と」
滔々と語る黒崎に、元司は困惑していた。黒崎という男は、こんなによく喋る人間だったのだろうか。もしかしたら、刑務所の十年が黒崎を変えたのかもしれない。
あるいは、草太やラジャと付き合ううちに変わったのだろうか。
元司の思いをよそに、黒崎は語り続けた。
「そんな者が入門し、道場にて師範から教えを受ける。当然ながら、道場では師範の教えは絶対だ。宗教に近い部分すらある。そんな空気の中にいると、師範の技を受けたら飛ぶ……という思いは、より強固なものになっていく。結果、本人は無意識のうちに体が反応し、飛ばされるようになってしまうのだ」
「へえ。黒崎さん、すげえなあ」
そう言ったのは中田である。端から見ていると、この三人の結束の固さは尋常ではない。いったい、どういう関係なのであろうか。
まさか、こいつらもラジャと同じとか?
元司の頭に、おぞましい乱交の絵図が浮かんだ。彼は、思わず顔をしかめて首を振る。ゲイを差別する気はないが、無理やり仲間入りさせられるのは勘弁してもらいたい。
「じゃあさあ、もしかしてモッさんにも、その催眠術みたいなのかけられんの? モッさんも洗脳されたりしちゃうの? だとしたら勝てないじゃん」
今度は、草太が尋ねる。だが、黒崎は首を横に振った。
「いや、それは無理だ。奴の力は、しょせん道場の中だけの……それも、弟子にしか通じないもの。リングの上では、荒川の相手にすらならない」
「えっ、ちょっと待ってよ! じゃあ、この本田はそのことをわかってんの!? それとも、わかってないの!?」
「ひょっとしたら、わかっていないのかもしれんな。弟子たちが己の技で飛んでいくのを見て、自身の技は本物……そう思い込んでしまったとしても不思議はない」
自信たっぷりの口調で、黒崎は言った。その態度を見ているうち、元司の胸に何ともいえない感情が湧き上がってくる。それが何なのか、彼にはよく分からなかった。
わかっているのは、その湧き上がってきたものをぶつけたい……という衝動の存在だけだ。
「あんた、さっきから偉そうに語ってるけどよ……だったら、何で刑務所なんか行ったんだ?」
不意に発した元司の一言は、その場の空気を一変させた。
「ちょっと荒川さん、その話は今はやめようよ」
中田がとりなすように言った。だが元司には引く気配がなく、じっと黒崎を睨んでいる。
すると、黒崎は無言のまま目を逸らした。その態度が、元司をさらに苛つかせる。彼は汗を拭くと、タオルを床に投げ捨てた。
「あんた、何で素人と喧嘩なんかしたんだよ? 挙げ句に、刑務所なんか行きやがって……あんたのせいで、みんながどれだけ迷惑したか分かってんのか?」
凄む元司の脳裏には、当時の記憶が甦る。
ニュースで黒崎の逮捕を知った瞬間、元司は愕然となっていた。驚きのあまり、しばらくは立ち上がることすら出来なかったのだ。
その後、元司は留置場に面会に行った。だが、警官には面会謝絶と言われてしまう。結局、黒崎とは会うことが出来ずに帰ることとなる。
その後しばらくして、元司は空手を辞めた。何もかもが嫌になったのだ。
「ちょっと待てよ」
言ったのは草太だ。怒りに満ちた目で、元司を睨んでいる。
「なんだよ。お前には関係ないだろうが」
元司は、面倒くさそうな表情で言葉を返す。だが、草太に引く気配はない。
「ああ、確かに関係ないよ。でもな、おっちゃんの事情も知らねえくせに──」
「やめるんだ」
草太を制したのは黒崎だった。彼は険しい目付きで、元司を見つめる。
「その件は、全てが終わった後にきっちり説明してやる。今は、トレーニングの方を優先しろ。お前が敗北したいというのなら、話は別だがな」
有無を言わさぬ黒崎の口調に、元司は黙りこんだ。
その時、倉庫の扉が開いた。ひときわ巨大な体の持ち主が、中に入って来る。言うまでもなくラジャである。彼女(?)は空気の悪さを一瞬にして察し、しかめっ面で周囲を見回した。
「ちょっと、何してんのよ……仲良くしなきゃダメでしょ。全く、アタシが付いてないと、本当にダメな男どもね」
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