試合開始

 試合終了のゴングが鳴らされると同時に、場内は割れんばかりの声に包まれる。その半分以上が、驚きの声であった。

 それも仕方ないだろう。まさかの大番狂わせである。事前の予想では、有名な格闘家や事情通のほとんどが、琴岩竜の勝ちは動かないと言っていたのだ。

 観客もまた、ほとんどの者が琴岩竜が勝つだろうと思っていた。ファンの中には、このトーナメント自体が琴岩竜を優勝させるためのイベントだろうと言う者までいたくらいだ。

 VIP席にいたこの男も、つい数分前までは、琴岩竜の勝ちを信じて疑っていなかった。


 ・・・


「何をやってんだ! あのバカは!」


 VIP席の石川和治は、喚きながら立ち上がっていた。

 怒りのままに、椅子を蹴飛ばす。さらに、地団駄踏みながら室内を歩き回る。その様は、物事が思い通りに進まず八つ当たりしている子供のようであった。

 まあ、彼の態度も仕方ない部分がある。これまで、琴岩竜にはかなりの額を投資していた。テレビ局にも、彼を次世代のスター候補として売り込んでいたのである。

 にもかかわらず、よりによって一回戦負けを喫してしまったのだ。

 しかも、ハイキックによる無様な1RKO負け──


「何をしてんだ! あのバカ、試合前に大麻でも吸ってたのか!」


 喚きながら、テーブルを思いきり殴りつける。そのとたん、拳に痛みが走る。

 その痛みが、石川に冷静さを取り戻させた。次の手を打つため、頭をフル回転させる。この不測の事態により生じた損害を、どう取り返すか……。

 やがて彼は、部下の柳沢の方を向いた。


「柳沢、あのナークは何者だ?」


「えっ? 何者と言われても──」


「何かないのかぁ!? たとえば、昔ものすごいワルだったとか、故郷では大家族を養ってるとか、そういう日本人ウケしそうなエピソードだよ!」


 石川は怒鳴り付けた。こうなったら、次はナークに期待するしかない。よく考えてみれば、彼は強すぎて対戦相手がいなかった最強のムエタイ戦士、という触れ込みなのである。そのキャッチコピーは、リクソンの四百戦無敗にも匹敵するのではないか。

 もうひとつプラスアルファの要素があれば、日本で人気者になれる可能性もある。

 ならば、ナークをエース候補にして売り出してみるのも、悪くないかもしれない……などと考えていた時だった。突然、場内が凄まじい歓声に包まれる。

 石川が視線を移すと、そこにはとんでもない光景があった。


 場内に響き渡る音楽は、映画『仁義なき闘い』のテーマ曲だ。

 さらに控え室からリングへ通じる花道には、ひときわ体の大きな男が悠然と歩いている。虎の縞模様を模したマスクを被り、同じく虎柄のロングタイツを履いている。裸の上半身は、筋肉と脂肪とがほどよく付いたレスラー体型だ。

 しかも、マスクマンは観客に向かい、拡声器で怒鳴りながら歩いている──


「アンタら! どこ見てんのよ! この童貞どもがあぁ! こんなとこ来てる暇があったら、綺麗な彼女でも作りなさいよ!」


 怒鳴りちらすマスクマンを、石川は唖然とした表情で見つめる……。


「な、何だあいつは……」


 思わず呟くと、柳沢が答える。


「あれ、プロレスラーのラジャ・タイガーですよ。引退したはずなのに」


 そう……花道を先頭切って歩いているのは、かつて一世を風靡した覆面レスラーのラジャ・タイガーである。日本人離れした巨体と派手な動きで活躍しつつも、数年で引退してしまった伝説のプロレスラーだ。未だに、ファンの間では語り草になっている存在なのだ。

 今回、彼女(?)はあえて元司のためにプロレスラーのラジャ・タイガーを復活させたのだ。体も鍛え直し、観客の前に肉体を晒せる状態にまで仕上げたのである。

 派手なパフォーマンスをするラジャの後ろから、荒川元司が悠然と歩いて来た。黒いタオルを首から掛け、普段と同じペースでリングへ向かっている。もっとも、観客の目はラジャに釘付けだ。

 さらに元司の横には、へらへら笑いながら歩く青年と頭の禿げ上がった中年男がいた。

 そのふたりを見た途端、石川は思わず叫ぶ。


「く、黒崎!? 黒崎なのか!?」


 ・・・


 拡声器で怒鳴りちらしながら歩いていくラジャの後から、元司はしかめ面で進んでいる。

 実のところ、笑いだしたいのを必死でこらえていたのだ。ラジャのパフォーマンスは、下手な漫才やコントよりよっぽど笑える。

 このお陰で、緊張がほぐれた。後は、本田と闘うだけだ。オープンフィンガーグローブをはめた手を握り、また開いてみた。問題はない。




 リングに上がると、元司は本田を睨み付ける。

 本田は白い道着姿で、太極拳のような動作をしている。その周りにいる者たちは弟子だろうか……明らかに雰囲気に呑まれていた。

 アナウンサーがマイクで選手紹介をしていたが、その声は元司の耳には入っていない。久しぶりに、全神経が闘うことに集中していた。鋭い目で、真っ直ぐ本田を睨み付ける。今すぐにでも、殴りかかっていきたい気分だ。

 その時、誰かの手が彼の肩に置かれる。


「荒川、さっさと行ってぶっ飛ばして来い。俺は、こういう雰囲気は好かん」


 黒崎の声だ。彼の言葉は、今の元司の気分そのままである……元司は本田を睨みながら答えた。


「安心しろ。言われなくても、すぐに終わらせるからよ」




 ゴングが鳴り、元司はガードを高く上げた体勢でじりじり近づいていく。まずは、プレッシャーをかけつつ前に出る。黒崎に教わった通り、元司は前進して行った。

 だが、ここで予想外のことが起きる。本田は、全く動かないのだ。奇妙な構えをしたまま、じっと立っている。


 こいつ、どういうつもりだ?


 元司は警戒し、相手の周囲をゆっくりと回る。だが、相手の反応は鈍い。

 軽くジャブを打ってみた。牽制のものであり、間合いの外から打っている。だが、これまた反応なしだ。間合いを見切っているのか、それとも別の理由があるのか。いったい何を考えているのか、全く読み取れない。

 ひょっとしたら、何か秘策があるのかもしれない。カウンターを狙っているのか。こちらが接近し、攻撃を仕掛けた瞬間にカウンターの一撃を見舞われたら……勝負は、その瞬間に決してしまう。

 警戒し手が出せない元司だったが、不意に声が聞こえてきた。


「荒川、奴には何の策も技もない! さっさと終わらせろ!」


 黒崎のものだ。その声により、元司は我に返る。

 

 うるせえな。

 言われなくても、さっさと終わらせてやるよ。


 心の中で呟くと、元司は腹を括る。一気に間合いを詰めた。

 その時、本田は奇妙な動作を始めた。手を前に突きだし、うねうねと動かす。客席からは、微かに失笑が洩れた。

 言うまでもなく、元司には何の効果もない。彼は前進し、軽いワンツーを放つ。あくまで牽制のつもりであった。

 だが、そのパンチは本田の口元に炸裂する──

 次の瞬間、本田は崩れ落ちた。元司は素早く馬乗りになるが、何の反応もない。本田の意識は飛んでいる。パンチがまともに顎に入り、脳震盪を起こしたのだ。

 元司は顔を殴るジェスチャーをしながら、レフェリーを見る。こいつはもうダメだぞ、続けていいのか? という意思表示だ。

 レフェリーは、すぐに元司の意図を察して動いた。彼が止めに入った直後、ゴングが打ち鳴らされる。元司は、悠然とした態度で立ち上がった。

 正直、勝利に対する喜びはない。むしろ、ホッとしたという気持ちの方が強い。本田は、あまりにも弱すぎた。下手をすれば、殺してしまうのではないかと思ったくらいだ。

 レフェリーが勝者をコールした後も、本田はまだ起き上がれなかった。元司の打撃は、お世辞にも上手とは言えない。ボクシングのコーチだった中田にも、はっきり言われたのだ……悪くはないが、ボクシングならミドル級レベルのパンチだと。

 そんな元司のパンチを浴びてダウンするとは。本田には、このリングに立つ資格などなかった。

 いや、そんなことはどうでもいい。問題は、次に闘うナークだ……。



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