三角絞め
歓声の中、元司はゆっくりと歩いていく。
先ほど、本田が秒殺された試合。それから二試合を挟み、メインのトーナメント決勝戦が始まる。元司とナーク……勝った方が、マルコへの挑戦権を得られるのだ。
「お前ら! 浮かれてんじゃないわよ! 人の闘い観てる暇があったら、お前らが自分の人生を闘いなさい!」
覆面を被り、拡声器で怒鳴っているのはラジャだ。マスクを被った姿で、元司の前を派手なパフォーマンスをしながら歩いている。プロレス界とは、もう二度と関わらない……そう言っていたのに、元司のためだけにプロレスラーのラジャ・タイガーを復活させてくれたのだ。
この気持ちには、応えなくてはならない。
リングに上がると、元司はナークを睨んだ。
しかしナークは、リラックスした表情でこちらを見返してくる。怯えているわけでも、こちらを侮っているわけでもない。極めて自然な顔つきだ。
草太が調べた情報では、ナークは幼い頃からムエタイの選手として活躍しており、トータルで百戦近くを経験しているとのことだ。したがって、格闘技のキャリアでは元司など比較にならない。
そのキャリアが、リング上での自然体という形で現れているのだ。
こいつ、強い……。
元司は、思わず奥歯を噛みしめていた。俺は負けない。こうなったら、絶対に勝ってやる──
「荒川、表情が堅いぞ。筋肉も強張っている。もっとリラックスするんだ」
コーナーに戻って来た元司に、黒崎が低い声で話しかけてきた。彼は柔らかなな表情で顔を近づけ、珍しく早い口調で語り出す。
「お前は今まで、勝つために必要なことをやってきた。後は、そのやってきたことを観客に披露するだけ。何の心配もいらん。ナークは確かに上手い。だがな、お前の方がでかいし強い。お前のパワーで、奴を捻り潰してしまえ」
黒崎の言葉が、元司の不安を和らげていく。一秒ほどの間に、今までやってきた練習が脳裏をよぎっていった。
そうだな。
俺だって、楽してきたわけじゃねえ。
「いいか、集中しろ。奴をぶっ倒し、さっさと帰って美味い飯でも食おう。さあ、行って来い!」
言った直後、黒崎が元司の肩をバチンと叩く。同時にゴングが鳴った。
いよいよ試合開始だ。
元司は黒崎に力強く頷いて見せると、ナークへと近づいて行った。
一方ナークは、軽やかな動きで元司の周囲を回る。本当に速い。五キロ増量したと聞いているが、その影響は全く見られない。
ガードを高く上げ、元司はじりじりと間合いを詰めていった。下手なタックルを仕掛ければ、カウンターの膝蹴りが待っている。タックルを仕掛けるのに、ベストなタイミングを図らなくては──
その時、ナークの左足が動いた。ビシリ、という鋭い音が響く。ミドルキックが、元司の右腕に炸裂したのだ。
次の瞬間、元司は踏み込むと同時に左のロングフックを放つ。びゅんという音を立てるが、ナークはパッと上体を反らして躱す。と同時に、一瞬で間合いを離した。
思わず舌打ちする。ナークは、本当に間合いの取り方が上手い。リーチのあるミドルキックを中心にした闘い方だが、ミドルキックが当たるか当たらないかの間合いを常に維持している。しかも、こちらが間合いを詰めると即座に離れる。
元司は、遠い間合いから軽いジャブを打つ。もちろん当たらないし、当てる気もない。相手の反応を見るためだ。だが、ナークはぴくりともしない。
ならば、とタックルのフェイントをかけてみる。だが、これまた反応がない。
もしかして、タックルは入れられるかもしれない。そんな考えが、頭を掠める。
試してみるか。
元司は、じりじりと間合いを詰める。速い左ジャブを連続で突きながら、両足タックルを仕掛けた──
狙い通りタックルは成功し、ナークは仰向けに倒れる。
だが、ここで想定外のことが起きた。ナークは巧みに体をくねらせ、非常に素早い動きでマットを這いずり回る。直後、両足で元司の体を蹴り、同時に己の体を滑らせ間合いを突き放した。
直後、一瞬にして立ち上がる──
元司は舌打ちした。ナークの身体能力は凄い。ムエタイで、強すぎて対戦相手がいなかったのも頷ける。寝技に持ち込まれた際の逃げかたも、完璧にマスターしている。しかも、動きはミドル級並みの速さだ。
倒された直後、エビのような動きで逃げる……これは、ブラジリアン柔術の動きだ。ナークは寝技への対策として、倒された状態から逃げて立ち上がる動きだけを、徹底的に練習してきたのだろう。
タックルを仕掛けて失敗した場合、スタミナの消耗が激しい。肉体のみならず、精神のスタミナも大きく消耗するのだ。せっかくタックルに行けたのに、寝技に持ち込むことが出来なかった……ガクリとなる展開だ。ましてや、ナークは打撃中心の選手である。倒さなくては勝ち目がない。
これは厄介だ。しかし、寝技に持ち込む方法は他にもある。
不意に元司は、天井に向かい吠えた。直後、自らロープに走る。ロープの反動を利用し、ドロップキックを見舞った──
当然、当たるはずもない。ナークはバックステップし、あっさりと躱す。場内からは、歓声と失笑とが聞こえた。
「モッさん! なにやってんだよ!」
リング下にいる草太は、思わず怒鳴った。だが、隣にいる黒崎は表情ひとつ変えない。両腕を組み、じっとリングの上を見つめている。
リング上の元司は、寝転がった体勢でじっとナークを睨む。下手な選手なら、ここで上に乗っかってのマウントパンチを狙うだろう。そこで、寝技の攻防に持ち込む……それが、元司の狙いだ。
しかし、ナークは深追いして来ない。寝ている元司の周囲を、ぐるぐる回るだけだ。
寝技の展開を徹底的に避け、立ち技だけで勝負する。それが、ナークの作戦なのだ。単純ではあるが、ナークの身体能力や適応力さらに立ち技の技術を活かした、非常に厄介な作戦である。
しかし、まだ手はある。
元司は起き上がった。再びプレッシャーをかけながら、じりじりと前に出て行く。ナークの方は自身の制空圈を守り、それ以上でもそれ以下でもない絶妙な距離を保っている。ミドルキックが、ギリギリ届くか届かないかの間合い……この間合いの取り方の上手さもまた、ムエタイならではだろう。
「ファイト!」
膠着状態と見たのか、レフェリーが声を出す。積極的に闘え、という指示だ。
すると、元司が驚きの行動に出る。突然、その場で前転……いや、浴びせ蹴りを見舞ったのだ。前転して踵で相手の顔面を蹴る技であるが、まず当たらない。
しかし、ナークは完全に意表を突かれたらしい。顔面に飛んできた踵を、止まったまま腕で払いのける。
その瞬間、元司はナークの左足首を両手で掴んだ。 同時に、己の両足をナークの右足に絡ませていく。一気に引き倒そうとしたのだ。
しかし、ナークの反応も尋常ではなかった。足への関節技を狙ってきたと見るや、一瞬で対応する。無理に足を引き抜こうとせず、逆に上からのしかかって来たのだ。
寝ている体勢の元司めがけ、上からパンチを落としていく。もし、これがまともに入れば、その時点で試合は決する──
その瞬間、元司は両手を伸ばす。それまでナークの足首を掴んでいた両手を離し、今度は両手首を掴みパンチを封じた。と同時に、両足をナークの腹に巻き付ける。
これは、クロスガードと呼ばれる体勢である。相手の腹部に両足を巻き付けることにより動きを封じ、さらにこちらからの絞めや関節技に繋げるためのテクニックだ。寝技において、基本中の基本である。
この瞬間、攻防は立ち技から寝技へと変わった。
それでも、ナークが有利なことに変わりはない。掴まれていた両手首を振りほどき、凄まじい勢いで上からパンチを落としていく──
その時、元司は思い切って上体を起こした。飛んでくるパンチに構わず、体を密着させる。さらに両腕をナークの体に回し、背中でがっちりロックした。
体が密着すれば、いくら最強のムエタイ戦士といえども効果的な打撃を出すことは出来ない。ナークは引き離そうとするが、元司の方がパワーはある。
この状態こそ、元司の狙っていたものである。彼は、己の左足をずらして上げていく。さらに下から、ナークの顔面に己の額を擦りつけていった。いま狙っている技から、相手の意識を逸らすための小細工だ。
顔面を元司の額で擦られ、ナークは顔をしかめた。思わず、元司の頭を引き離そうと動く。
次の瞬間、元司は体を斜め上方向にずらした。左足を大きく跳ね上げ、ナークの首に巻き付ける。三角の形に組まれた両足の中に、ナークの首と左腕が挟まれた状態……いわゆる三角絞めの形だ。
そこから両足に力を込め、一気に絞め上げる──
だが、ナークは勝負を捨てない。彼は必死でもがいた。元司の絞めを外すべく、全身の力で振りほどこうとする。しまいには、足で元司の顔を踏みつけにかかった。
「この野郎!」
元司は怒鳴ると同時に、ナークの頭部を両手で掴んだ。
そのまま、両腕に力を入れ引き付ける。巻き付いている両脚も、さらに狭めて絞め上げる──
すると、ナークの表情が変わった。三角絞めが完璧に入ったのだ。ナークの体からフッと力が抜け、目から光が消える……。
その時、初めて黒崎が声を発した。
「レフェリー! このままだと落ちるぞ!」
その言葉に、レフェリーはナークの腕を掴んでみた。だが、何の反応もない。だらんとした腕、虚ろな表情……レフェリーは、慌てて試合をストップさせた。
ゴングが打ち鳴らされ、歓声が響き渡る中、元司は立ち上がった。不思議な気分に支配されている。四十五歳にして、久しぶりの格闘技そして勝利だ。
元司は年がいもなく、本気で感動していた。ナーク・ギアッソンリットは本当に強かった。もし体重が同じだったら、敗れていたのは間違いなく元司の方だったろう。そんな強敵を、下からの三角絞めで倒すことが出来たのだ。
今は亡き藤吉とのセメントから学んだ技で……。
気がつくと、元司はマイクで叫んでいた。
「俺は、藤吉組のプロレスラーだ!」
・・・
「あいつが勝ったのか。じゃあ次は、荒川がマルコと闘うのか」
石川和治は呟きながら、リングの上を暗い目で見つめる。その視線の先には、頭の禿げ上がった中年男がいた。背はさほど高くない上、ずんぐりとした体型だ。一般人から見れば、メタボな親父にしか見えないだろう。
だが、あの男は……かつては格闘技界で最強、とまで言われていた空手家だった。
まさか、今ごろになって目の前に現れるとは。
「黒崎健剛……今の時代は、お前みたいな人間は必要ないんだよ。今さら、何をしに来たんだ?」
呟く石川の表情は、どこか悲しげであった。
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