黒崎の過去・武人VS怪物(2)

 黒崎の五体を、異様な感覚が駆け巡る。

 彼は今まで、様々な人間を見て来た。その中には、武術の達人を自称する者もいたが……全てが偽者だった。

 この奇怪な外国人は違う。本物の達人だ。恐らくは、武の歴史に名を遺せる傑物。そんな達人と、こんな場所で立ち合えるとは……人生とは、わからないものだ。

 黒崎は、構えを解いた。大きく息を吸い込む。直後、鋭い気合いと共に吐き出す。空手独自の呼吸法・息吹だ。

 そして、ゆっくりと拳を挙げ構える。自分がこれまで培ってきた全てを、今この男にぶつけるのだ。

 対する男は、ニヤリと笑った。


「仕方ないな。いいよ、いつでも来たまえ」

 

 男の言葉の奥には、微かな喜びがあった……少なくとも、黒崎にはそう感じられた。

 この男、やはり本物だ──


 黒崎は、すっと間合いを詰める。同時に、速い左の上段突きを放つ。

 だが、これはフェイクだった。軽く握られていた拳が、男の顔面に届く寸前でパッと開かれる。

 途端、手に握られていたものが男の目を襲った。砂粒である。先ほど地面に倒された時、とっさに砂粒を握りしめていたのだ。その砂粒を、突きのふりをして投げつける──

 さすがに、この攻撃は想定外だったらしい。男は顔をしかめ、目をつぶる。

 その一瞬の隙を、黒崎は逃さない。右の正拳による鉤突きを、男の脇腹めがけ打ち込む──

 正拳は、男の脇腹にめり込む。それは異様な感触だった。人体を殴っている感覚とは、似て非なるものだ。あえて言うなら、巨木を殴る手応えに近いものだった。

 だが、黒崎の攻撃は止まらない。さらに、右の掌底を顔面に叩き込む。かつてのボクシング世界ヘビー級チャンピオン、マイケル・バイソンのコンビネーションを空手流にアレンジした右の連撃である。まさに、渾身の一撃だった。これが外れたら、自分は終わる……その一念を込めた掌底であった。

 直後、黒崎は目を見張る。掌底は、確かに当たっていた。にもかかわらず、男は倒れていない──

 掌底は、相手に脳震盪を起こさせる打撃である。脳震盪を起こさせるには、頭を揺らさなくてはならない。しかし男は、とっさに顎を引いて肩に付け、頭と首を固定し、脳震盪を防いだのだ。しかも、この男の首は異常な強さである。生半可な打撃は通じない。

 次の瞬間、男の手が伸びてくる。気づくと、喉を掴まれていた。凄まじい握力だ。一瞬で意識が飛びそうになる。

 直後、足を払われる。黒崎は、背中から地面に叩きつけられていた── 


 この間、僅か数秒しか経っていないだろう。だが黒崎にとって、今までの人生でもっとも濃密な時間であった。

 なぜか、笑みが浮かぶ。負け惜しみとは違う、自然に出た笑みだった。


「もういい。気はすんだ。さあ、殺せ」


 気がつくと、そんな言葉が出ていた。

 男は、黒崎をじっと見下ろす。喉元を掴む手から感じ取れる腕力は尋常ではない。熊にでものしかかられているかのようだ。単純な腕力からして、レベルが違い過ぎる。喉を掴んだ瞬間、握り潰すことも可能だったはず。

 今、ようやく正体がわかった。この男、達人などという優しい存在ではない。神が気まぐれで生み出した本物の怪物だ。人間の練り上げた武など、完全に超越した存在である。

 そんな怪物と、人生最期の日に対峙できたのだ。殺されても悔いはない──


「俺は、何もかも失った。今さら生きたいとは思わん。さあ、殺せ。さっさと殺してくれ」


 それは、黒崎の偽らざる本音だった。

 一時は、最強の格闘家などとマスコミから持て囃されもした。だが、一瞬にして全てを失い、ホームレスにまで身を落とした。かつて擦り寄ってきていた者たちは、手のひらを返し去っていった。親戚筋からも縁を切られた。

 もう、自分には何もないのだ。ならば、この最強の男の手にかかって死にたい──


 その時だった。突然、男の手が喉元から離れた。


「申し訳ないが、今の君に殺す値打ちはないな」


 男は、すっと立ち上がった。冷たい目で黒崎を見下ろし、さらに辛辣な言葉を吐く。


「君の力も技も、ここまで低いレベルだとは思わなかったよ。見た感じ、もう少し楽しませてくれる気がしたのだがね。だいぶ怠けていたようだな。とても残念だよ」


 そのセリフは、刃のように黒崎の心に突き刺さる。自身の今までしてきたことが、この怪物の前では児戯じぎに等しいものだったというのか。

 いや、鍛練を欠かしていなければ、もう少し闘えたのではないか──

 後悔の念が、黒崎の中に浮かぶ。一方、男は背中を向け立ち去っていった……かに思えたが、数メートル歩いて立ち止まった。

 こちらを向き、静かな表情で口を開く。


「先ほど君は、何もかも失ったと言っていたね。だが、本当に何もかも失ったのかな。俺には、そうは思えない。君のうちには、また残っているものがあるはずだよ」


「ど、どういう意味だ?」


「このままだと、君はもっとも大切なものを失うことになる。俺に言えるのは、それだけだ。では、失礼するよ」


 そう言うと、再び背を向ける。黒崎は、慌てて叫んでいた。


「あんた、名前は!?」


「ペドロだ。縁があったら、また会おう」




 翌日の夜。

 暗闇の中、黒崎は憑かれたような表情で稽古に励んでいた。あの怪物の動きを脳内で再現しつつ、渾身の一撃を叩き込む……凄まじい勢いで、持てる技を虚空に放つ。さらに、拳立て伏せやジャンピングスクワットといった基礎連もこなしていく。

 彼は今、ひたすら己の武器を磨ぎすませることに集中していた。

 いつか、あの怪物ともう一度立ち合う日を夢見て──


 ・・・


「ま、待ってくれ。あんた、誰に雇われた?」


 石井貞治は、床で腰を抜かし震えていた。

 ここは、都内某所にあるタワーマンション最上階の一室だ。彼の周りには、三人のボディガードがいる。皆、特殊訓練を受けた凄腕……のはずだったが、今は意識を失い、床の上に倒れている。

 そんな事態を引き起こしたのは、目の前にいる小柄な外国人であった。作業服姿で帽子を被り、ボロボロの汚いスニーカーを履いている。先ほど、鍵のかかっているはずのドアからいきなり現れ、ボディガードを一瞬で叩きのめしてしまったのである。

 外国人は、にこやかな表情で口を開く。


「申し訳ないが、君には死んでもらう」


「ちょっと待ってくれよ! なんでだ!? なんで殺されなきゃならない!?」


「理由なら、ちゃんとある。君の名は石井貞治、ヤクザの幹部だ。かつてメキシコに旅行に行った際、現地の幼い少女を犯して殺した。少女の父親は料理人でね、とても美味しいプエルコ・ピビルを作るんだよ。その父親に頼まれたんだ。娘の命を奪った男に、地獄を見せてくれ……とね」


 そう言うと、外国人はニヤリと笑う。石井は、慌てて叫んだ。


「だったら、俺はそいつの倍、いや十倍払う! だから見逃してくれ!」


「無理だな。俺は、彼と約束したんだよ……美味いプエルコ・ピビルを食わせてもらう代わりに君を殺す、とね。俺はね、約束を破るのが嫌いなんだ」


 言った直後、外国人の手が伸びる。石井の腕を掴んだ。

 次の瞬間、腕はありえない方向に曲がっていた──

 石井は悲鳴を上げる。だが、誰も聞く者はいない。ここは、防音設備が完璧なのだ。どんな音を出そうが、外に洩れることはない。

 外国人は、ふたたび手を伸ばす。が、その動きが止まった。


「君は、これから死ぬわけだが……ひょっとしたら、人間として生まれ変わるかも知れないね。その時に備え、ひとつだけ忠告しておこう。君のボディガードは弱すぎる。昨日、公園で寝ていたホームレスの方が遥かに強かったよ。来世があったら、もう少しまともな連中を雇いたまえ」









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