初めての体験

「今の時間は、キックボクシングのクラスだ。俺が指導する。まずは、準備運動だ。軽く肩周りや腰周りの筋肉を動かせ」


 黒崎に言われ、唯湖はかつての記憶を思い返しながら手足を動かしてみる。

 こんな風に、体を動かすのは何年ぶりのことだろう。




 流九リュウク駅から、歩いて二分ほどの場所に建っている四階建てのマンション。その地下一階にあるのが『荒川ジム』である。総合格闘技のジムだが、キックボクシングの指導もしているのだ。

 さほど広くはないが、向こう側にはサンドバッグが四つ並んでいる。また、壁に鏡の貼られた一画もあった。

 そんなジムの中にいるのは、赤いTシャツを着て短パンを履いた黒崎。同じく赤いシャツと短パン姿の田原。そして、長袖のジャージ姿の唯湖の三人だ。彼女は今日、ジムに入会したばかりである。

 そんな唯湖を前に、黒崎は重々しい口調で語り出した。


「ここでは、三分動いて一分休むというサイクルだ。ボクシングやキックボクシングは、三分を一ラウンドとして設定している。だから、三分トレーニングしたら一分間休むと覚えておけ」


「わかりました」


 唯湖が答えると、黒崎はまた語り出す。


「うむ。では、まず構えからだ。あんたは、右利きか?」


「は、はい」


「そうか。本来、右利きの人間は左手と左足をを前にして構える。しかし、あんたには左手がない」


 その途端、横に立っている田原が血相を変える。


「ちょっと! おっちゃんさあ、もうちょっとオブラートに包んだ言い方できんかなあ」


「あ、すまん」


 田原に言われ、申し訳なさそうに頭を下げる黒崎。

 その姿に、唯湖は思わず吹き出しそうになっていた。厳つく武道家然とした見た目の中年男・黒崎と、軽薄そうでホスト崩れのような見た目の若い田原。ばっと見は、水と油のようだ。

 にもかかわらず、ふたりは仲がいいらしい。両者のやり取りを見て、唯湖の緊張感も少し和らいだような気がした。


「いえ、いいんです。はっきり言ってください。変に気を遣われるよりは、ずっといいですから」


 にこやかな表情で言うと、黒崎は頷く。


「そうか。まずは、そこに立ってみろ。次に、両足を肩幅くらいの広さに開け」


 言われた通り、両足を開いてみた。


「左足を一歩下げる。それが、基本の歩幅だ」


 黒崎の指示に従い、片足を下げてみる。


「次は構えだ。右拳を、顔の前に構えろ。この右手で、顔への攻撃を全て捌ききるつもりで構えるんだ」


 急に注文多くなったが、問題はない。唯湖は、右手をあげて構えた。

 

「そこから、右拳を真っすぐ伸ばす。相手の顔面を打ち抜くつもりで、真っすぐ突き出すんだ。最初は、ゆっくりでいいぞ」


 言われた通り、拳を突き出す。だが、何ともぎこちない。鏡に映る己の動きは、かくかくしていた。パンチを打つというのは、こんなに難しいのか。

 すると、黒崎が口を開く。


「動きそのものは、それでいい。次は、速さを重視して打つんだ。腕で殴るのではない。力を抜き、肩から拳を発射するイメージで打ってみろ」


 拳を、肩から発射するイメージ……よくはわからないが、言われた通りにやってみた。腕の力を抜き、肩を起点に拳を放つ。

 微かに、ビュンという音が聞こえた……ような気がした。速くキレのあるジャブが、虚空に放たれたのだ。先ほどのカクカクした動きとは真逆である。打った唯湖も驚いていた。

 黒崎も、満足げな表情を浮かべている。


「そうだ。なかなか上手いな。次は、そのパンチを打ちながら前に進んでみろ」


「えっ……」


 戸惑いつつも、言われた通りにやってみた。だが、何ともぎこちない。鏡に映る自身の姿は、壊れたロボットのような動きである。

 すると、黒崎が口を開いた。


「こんな感じだ。見ていろ」


 言った直後、黒崎は動いた。

 両拳を挙げ、構える。唯湖と同じく、右手を前にした構えだ。

 次の瞬間、スッと前に動く。その動きは自然であり、しかも速い。ずんぐりした見かけからは、想像もつかない動きた。

 直後、移動と同時に右拳が放たれた。ビュンと拳を放ったかと思うと、次の瞬間には構えに戻っている。動から静……テレビで観るボクシングの動きとも、また違うものだ。

 かと思うと、すぐに動いた。滑らかな動きでスッと前に移動し、また右拳を放つ。恐らく、これは格闘技の中でも基本中の基本なのだろう。

 にもかかわらず、その動きは本当に見事である。極めている者の技は、基本的なものでも美しさすら感じさせる。

 

「さあ、やってみろ」


 黒崎の言葉に、唯湖は我に返った。見よう見まねで、今の動きをやってみる。

 すると、黒崎の表情が変わった。


「凄いな。先ほどとは、まるで違う。柔らかい動きだ。あんた、何かスポーツか武道をやった経験があるのか?」


「えっ? 小学生の時、バレエを習っていました」


 そう、唯湖は昔バレエを習っていたのだ。当時住んでいた家の近くにあった教室に、三年ほど通っていたことがある。練習態度は真面目で、講師にも褒められた記憶があった。

 もっとも、家を引っ越すことになり通えなくなってしまったのだが……。


「バレエか。なるほどな。バレエが、あんたの体の基礎を作ったのだな」


 黒崎が言うと、田原が不思議そうな顔で口を挟んできた。


「おっちゃんよう、バレエってあれだろ? くるくる回って飛ぶ奴だろ? あれって強いのか?」


 言いながら、その場でくるくる回ってみせる。何ともユーモラスな動きだ。唯湖は、くすりと笑った。

 黒崎は、にこりともせず答える。


「強いとか弱いとか、そういう問題ではない。バレエは、世界でも認められた伝統あるダンスだ。柔軟さ、瞬発力、筋力、持久力といった要素を全て鍛えられる。競技人口も多い。一流のバレエダンサーの身体能力は、トップクラスのアスリートと同レベルだと考えていい」


「マジかよ。すげえんだな」

 

 感心したように言った田原を尻目に、黒崎は唯湖の方を向く。


「次は、回し蹴りだ。先ほど教えた構えから、膝を挙げる。次に腰を回しつつ、膝を伸ばしていく。例えるなら、腰の回転と同時に膝から先を相手にぶつけていく、そんなイメージだ」


 言った後、黒崎は構えた。先ほどと同じく、右手前の構えだ。

 突然、左足が動いた。ビュンという音を立て、左足が空を切る──


「おおお、すげえじゃん。さすが、おっちゃんだね」


 言いながら、田原はぱちぱちと手を叩く。しかし、黒崎はにこりともしない。


「次は、あんたの番だ。見よう見まねでいい、左足でやってみろ」


 言われた唯湖は、足を振ってみる。だが、上手くいかなかった。ぎごちなく、動きも遅い。黒崎の蹴りと比べると、素人目にも下手に見える。

 すると、黒崎が口を開く。


「もう一度だ。力を抜き、しなやかに蹴る。イメージとしては、鞭だ。足が鞭になる、バレエのターンを思い出してみろ」


 バレエのターン……幼い頃、バレエ教室で足を高く上げたまま一回転した記憶が蘇る。純粋だった時代。出来ない動きが出来るようになる、それだけで喜びを感じていた。

 次の瞬間、唯湖は動いた。右足を軸に、体がくるりと回転する。その回転に伴い、左足が放たれ虚空を切り裂く。先ほどとは、比べものにならないくらい綺麗な蹴りだ。

 見ていた黒崎は、ボソッと呟いた。

 

「不思議だな」


「何が?」


 田原が聞き返す。


「普通、蹴りは経験者でもない限り上手く出来ないものだ。ところが能見は、パンチは素人に毛の生えたレベルだが、蹴りは上手い。今の蹴りは、空手なら青帯レベルだぞ」


「青帯って?」


「白帯の次の段階だ。能見はほんの数分で、あっさり白帯の段階を超えてしまった。たいしたものだ。やはり、幼い頃に学んだバレエの経験が活きているのだろうな」


「本当ですか?」


 思わず尋ねる唯湖に、田原が大きく頷いた。


「唯湖ちゃん、このオヤジは不細工な面してっけど、嘘はつかないし御世辞も言わないから」 


 言いながら、黒崎をつついた。すると、黒崎は仏頂面になる。


「余計なことを言うな」


「余計なことじゃねえよ。来た人に、御世辞くらい言いなよ。でないと、潰れるかもしんないぜ」


 ふたりが言い合っていた時だった。いきなりジムと扉が開く。

 そして、若い男女が入ってきた。坊主頭の大柄な青年と、美しい女だ。


「あれ、珍しいね。新しく入った人?」


 女性の方が尋ねる。

 髪はショートカットで、顔は見事なまでに整っている。Tシャツとホットパンツという露出度の高い格好であり、バストは大きく形も良く、ウエストはキュッとくびれている。そんな素晴らしい肉体を、露出の多い服装で惜し気もなく晒していた。

 だが唯湖は、彼女を見ていて違和感を覚えた。どこがかははっきり言えないが、目の前にいる女性は何かが違う気がする。

 困惑する唯湖に向かい、黒崎が口を開いた。


「紹介しておこう。能見さん、この二人は会員だ。鈴本龍平スズモト リュウヘイくんと、大東恵子オオヒガシ ケイコさんだ」


「よろしくね」


 紹介された大東は、何のためらいもなく近づき微笑む。

 その時、唯湖はようやく違和感の正体を悟る。


 この人、ひょっとして……昔、男だったんじゃない?





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