蘇る悪夢

 試合出場から二ヶ月ほど経った日。

 ジムでの練習を終えた唯湖は、帰宅のため夜道を歩いていた。

 最近、ようやく社会復帰のための活動を始めた。何もかもうまくいっている。たまに不快なこともあるが、昔に比べればたいしたことではない。

 そう、あの頃に比べれば……。

 



「唯湖ちゃん、久しぶり。ずいぶんと雰囲気変わったなあ。一瞬、気がつかなかったぜ


 ジムを出て、五分ほど歩いた時だった。いきなり声をかけられ、唯湖の動きは止まった。その声には、聞き覚えがある。

 彼女の記憶を「あの頃」に戻す声だ──


「あのハゲたオヤジとは、どういう関係?」


 夜道に現れたのは、覚醒剤の売人である伊藤誠だった。唯湖を、どん底にたたき落とす原因を作った男……。


「あんたには関係ないし、言いたくもない」


 それだけ言って、足早に立ち去ろうとする。だが、誠は素早く動く。彼女の前に立ち塞がった。


「そんな冷たいこと言うなよ。俺と唯湖ちゃんの仲じゃねえか。それに、唯湖ちゃんの大好きなの、ちゃんとあるよ」


 言いながら、誠がポケットから取り出したもの……それは、切手くらいの大きさのビニール袋だ。中には、氷砂糖のような粉末が入っている。

 これが何であるか、考えるまでもない。覚醒剤の入ったパケ(小さなビニール袋を指すスラング)だ。

 唯湖を泥沼に引きずり込んだ、忌まわしい薬物──


「ほら、無理はしない方がいいぜ。サクッと一発打てば、すぐ極楽気分なんだからよ」


 その言葉は本当だ。これまで、何十回繰り返したことか。

 だが、極楽はすぐに地獄へと変貌する。唯湖は、その事実も嫌というほど知っていた。覚醒剤が効いているうちは、確かに気分がいい。だが、切れた時は一気に地獄へと突き落とされる。不眠や絶食がもたらす幻覚や幻聴、注射器による傷だらけの血管、落ちくぼんだ目、強烈な鬱状態──

 もう、あの頃に戻りたくなかった。だが、手は小刻みに震えている。体は、かつての快感を覚えているのだ。

 欲望に身を任せてしまえ、と悪魔が囁く。その声にあらがうことは出来なかった。唯湖は、震える手を伸ばす。

 その時、自身の手が視界に入った。サンドバッグを叩き続けた手は、昔より厳つくなっている気がした。

 唯湖の動きが止まる。ふと、試合直後の祝勝会を思い出した。

 便利屋の田原草太。

 ニューハーフの大東恵子と、年下の彼氏である鈴本龍平。

 会長の荒川元司。

 そして、黒崎健剛。

 これまでの人生において、皆とあんな風に楽しく騒いだ記憶がない。若い頃は、ずっと宇宙飛行士への夢を追っていた。そのため、友達と遊ぶ暇がなかった。やがて「あいつは付き合い悪い」と敬遠されていった。

 事故にあってからは、世の中を呪い、自宅に閉じこもっていた。付き合いのあった者といえば、目の前にいる誠だけだ。

 でも、今は違う。

 今の唯湖には、人間らしい生活を送れる場所がある。笑顔で語り合える人たちがいる。

 尊敬し、信頼できる人がいる──


「ちょっと、何やってんの? 固まってないでさ、どうすんのか決めてよ」


 そんなセリフを吐いた誠の顔には、勝利を確信した笑みが浮かんでいる。この男、今まで大勢の人間に覚醒剤を売ってきた。やめると宣言しても、目の前に覚醒剤のパケを見せれば簡単に転ぶ。今も、そうなるものと思っていた。

 唯湖の手が伸びてきて、パケを掴む。計算通りである。誠は、ニヤリと笑った。

 手にしたパケを、震えながら見つめる唯湖、一瞬の間があったかと思うと、彼女はそれを投げ捨てた。

 愕然となる誠の前で、さらに予想外のことが起きる。地面に落ちたパケを、唯湖は踏み付けたのだ。

 異様な声を上げながら、何度も踏み付ける──


「消えちまえ! こんなもの! 世の中からなくなっちまえ!」


 叫びながら、パケをぐしゃぐしゃに踏みにじる、誠は、引き攣った顔で口を開いた。


「ちょ、ちょっと、何やってんの? それ、ただじゃないんだけど」


 その時、唯湖の目は誠に向けられた。じろりと睨む。

 次の瞬間、右拳を挙げ構えた。


「お、おいおい、何それ。ボクシング? 何か知らないけどさ、俺を殴る気なの? 勝てるとか思ってるわけ?」


 そう言って笑ったが、誠の声は上擦っていた。表情にも余裕がない。唯湖の放つ異様な雰囲気に気圧されていた。

 唯湖の方は、闘志がみなぎっていくのを感じていた。恐怖はない。今の自分なら、誠に勝てる可能性がある。それも、決して低くない可能性だ。

 いや、勝ち負けなどどうでもいい。抵抗するのだ。ボコボコに殴られてもいいから、お前には簡単に屈しないという意思を見せなくてはならない。

 前歯を折られても、鼻を潰されても構わない。引き換えに、この男にも痛い思いをさせる。そうすれば、もっと楽な相手を探すだろう。

 自分の人生から、伊藤誠という人間を排除するのだ。

 でないと、あの時に戻ってしまう──


 唯湖の心を、ドス黒い殺意のような感情が支配していた。こうなったら、殺すつもりでいく。逮捕されても構わない。

 頭は、一瞬で次に出す技を選択していた。今まで、サンドバッグに何度となく叩き込んできた左のハイキック。体は自然に動く。間合いを詰め、左ハイを誠の顔面に叩き込もうとした時──


「外が騒がしいから何事かと思ったが、またお前か」


 聞き覚えのある野太い声……黒崎だ。唯湖の動きが止まった。いつの間に現れたのだろう。

 黒崎は、こちらに向かいすたすた歩いてくる。途端に、誠の表情が変わった。怯えながら、後ずさりを始める。

 黒崎の動きも変わった。素早く移動し、ふたりの間に割って入る。唯湖に背を向け、誠に視線を向けた体勢で口を開いた。


「お前、このままだと殺されるぞ」


 言葉の本当の意味は、誠にはわからなかっただろう。もっとも、黒崎の存在だけで充分だった。この恐ろしい男に逆らう気などない。くるりと背を向け、真っ青な顔で去っていった。

 去り行く誠の後ろ姿を、じっと睨んでいた黒崎だったが、不意に表情が変わる。

 唯湖が、彼の背中に顔を埋め啜り泣いているのだ──


「おっちゃん、悔しいよ……また負けそうになった……」


 涙声で訴えてくる唯湖に、黒崎は何も言えなかった。


「いっぱい練習して、試合にも出た……やっと、生きることが楽しくなってきた。なのに、またあいつが……」


 嗚咽まじりの声だった。そのまま、崩れ落ちそうになる。黒崎の背中で、かろうじて支えている状態だった。

 その時、黒崎がようやく口を開いた。


「俺は昔、刑務所にいたことがある。それも、十年間だ」


「えっ?」


 唯湖は顔を上げた。まさか、黒崎の口からそんな言葉が出ようとは思わなかった。


「おっちゃん、何を……」


 言いかけたが、すぐに口をつぐむ。そんなプライベートなことを、聞いてしまっていいのだろうか。それに、もし連続強姦魔だった過去がある、などと言われたら……確実に、今までのような付き合いは出来ない。

 すると、黒崎は苦笑した。


「何をして刑務所に入ったのか、と聞きたいのだろう。罪名は、殺人未遂と傷害だ」


「殺人未遂?」


「ああ。詳しく説明すると、当時の俺は現役の空手家だった。ある夜、河原を走っていたら悲鳴が聞こえた。行ってみたら、数人のチンピラがいた。半裸の若い女を、笑いながら取り囲んでいたよ。俺はかっとなり、貴様ら全員殺すと言って襲いかかった。全員を病院送りにした」


「ちょっと待って! 何それ! おっちゃん悪くないじゃん!」


 身振り手振りを交えて騒ぐ唯湖の表情は、いつも通りのものだった。先ほどまで心を覆っていた悲しみは消えてくれたらしい。

 一方、黒崎は重々しい口調で語り続ける。


「裁判では、空手五段の経歴と全員を病院送りにしたことが重視された。俺の、殺してやるという発言も印象を悪くした。だが、何より致命的だったのは、襲われていた女が証言を拒否したことだ」


「何それ……酷いよ。酷すぎる」


 言いながら、唯湖はかぶりを振る。あまりに理不尽だ。人を助けたのに、刑務所に入れられたのか。

 

「当時、性犯罪の裁判は何をされたか事細かに語らねばならなかったそうだ。それも、男の刑事を相手にな。だから、女はチンピラを訴えなかったし、証言も拒否した」


 言った後、黒崎は振り向いた。少しの間を置き、静かな口調で語り出す。


「河原で、襲われていた女を助け、チンピラに暴力を振るった。結果、俺は全てを失った。空手の世界大会優勝の夢は消え、所属していた空手団体を破門になった。付き合いのあった友人たちは、みんな離れていったよ。親戚筋からも、縁を切られた」


 そこで、黒崎は笑ってみせた。無論、おかしくて笑ったのではない。当時は、あまりの不条理な展開に笑うしかなかった。その時の気持ちを思い出したのだ。

 すると、唯湖は涙を拭った。


「大変だったんだね、おっちゃん」


 しんみりした口調だった。唯湖の澄んだ瞳は、黒崎を真っすぐ見つめている。何かを訴えかけているようにも思えた。

 黒崎は、思わず目を逸らす。唯湖の態度に、柄にもなく戸惑っている。おほんと咳ばらいをした後、俯いたまま語り出した。


「俺には、薬物との戦いや、その苦しさはわからない。しかし、挫折は経験した。全てを失い、一時期はホームレスになったこともある。だが、今どうにかここまで来た。もし薬物をやりたくなったら、俺か便利屋に連絡しろ。話し相手くらいにはなれる」


「おっちゃん……」







 

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