黒崎の秘策

 いよいよ、試合当日を迎えた──



 唯湖は、リングの上に立っていた。まばゆいライトに照らされる中、彼女は静かな表情を浮かべ自然体で佇んでいる。

 そんな唯湖の前には、鋼のごとく鍛え抜かれた肉体を持つ女が立っていた。身長は唯湖よりも低いが、筋肉の量は彼女よりも多いだろう。いかにも気の強そうな面構えであり、闘争心をみなぎらせた瞳で唯湖を見上げている。口を開けマウスピースを付けた歯を剥きだし、コーンロウの頭を小刻みに揺らしながら唯湖を睨みつける姿は、繁華街をうろつくチンピラそのものだ。

 この女が、対戦相手の前川茜である。体は、完全に仕上がっていた。この試合に対する、並々ならぬ決意を感じさせる。闘志の方も凄まじいものだ。今すぐにでも、殴りかかってきそうな雰囲気である。

 しかし、唯湖は怯んでいない。不思議なくらい落ち着いていた。試合前のレフェリーの言葉を、冷静な表情で聞いている。

 この試合は、ほとんどのマスコミが前川の一ラウンドKOを予想している。これはもはやキックボクシングではなく、単なる残酷ショーだ……と酷評する者までいたくらいだ。

 レフェリーの説明が終わり、唯湖は自軍のコーナへと戻っていく。と同時に、黒崎の激が飛んできた。


「唯湖、お前は勝つために必要なことを全てやってきた。何の心配もいらん。雑音は、全て無視しろ。奴は確かに強い。強靭な肉体を持っている。だが、もっとも強力な武器は人間の精神力だ。どん底から這い上がってきたお前の精神力は、誰よりも強い。作戦通りに動けば、勝つのはお前だ」


 彼にしては、珍しく早口だ。しかし、その声はしっかりしている。いつもと同じく、聞いているだけで自信を与えてくれる声だ。

 そんな黒崎に、唯湖は笑みを浮かべ頷いた。


「おっちゃん、ありがとう」


「礼を言うのは、まだ早い。奴を倒してからにしろ。さっさと片付けて、早く帰るぞ。何も知らんバカどもの予想を、一緒に覆してやろう」


 その言葉に頷いた唯湖だったが、直後に表情が変わる。


「勝てた時の約束、忘れてないよね」


「ああ。勝てたら、何でもやってやる。だから、今は試合に集中しろ。さっさと行って、ぶっ飛ばしてこい。俺は、お前を信じているぞ」


 直後にゴングが鳴り、試合が始まった──

 唯湖は軽快なフットワークで、リングの中を動き回る。その構えは極端な半身であり、いつもと同じく右手と右足を前にしたサウスポーのスタイルだ。

 一方、前川はパンチ主体の選手に有りがちな前傾姿勢で、じりじりと近づいて行く。太い両腕でガッチリと顔面をガードし、野獣のような目で唯湖を睨みつけている。

 じりじりと間合いを詰めてくる前川。直後、強烈なローキックを放っていった。

 しかし唯湖は、軽やかなフットワークで間合いを離す。ローキックは、見事に空振りした。

 前川は口元を歪める。彼女の必勝パターンは、上下に攻撃を散らしてからのパンチだ。得意のパンチを炸裂させるには、もっと接近しなくてはならない。だが、唯湖のフットワークが早く捉えきれない、

 その瞬間、唯湖の右膝が上がる。直後、足裏が弾丸のような勢いで放たれた。

 鋭い横蹴りが、前川の腹をえぐる──


 前川の表情が変わった。この野郎、とでもいいたげな顔つきだ。しかし、唯湖は攻撃の手を緩めない。さらに、右の横蹴りを放っていく。そのスピードは速い。まるでジャブのような蹴りだ。

 前川は、怒りをあらわに前進していった。突進して横蹴りの間合いを潰し、パンチを叩き込むつもりなのだ。

 しかし、唯湖はその動きを読みきっていた。速いステップワークで、一瞬にして横に回り込む。と同時に、間合いを離していく。速いステップで、前川の周囲をぐるぐる回り出した。

 観客席から、おおおという声が聞こえてきた。キックボクシングのセオリーにない動きに、圧倒されているのだ。

 一方、前川は顔をしかめる。自分のペースが掴めないことに苛立っていた。

 その時、唯湖が間合いを詰めていった。同時に、またしても右の横蹴りだ。足裏が、腹に突き刺さる。

 ほぼ同時に、前川が左のロングフックを放った。大振りのパンチが、ブンと唸る。間合いが遠く当たらなかったが、もとより当てるためのパンチではない。目の前で空振りされると、相手は思わず萎縮してしまうことがあるのだ。結果、ペースを掴めることもある。

 唯湖は、ぱっと間合いを離しにかかった。チャンスだとばかり、前川は前進していく。

 その時、唯湖の体が回転した──


 左足のかかとが、前川の顔面を襲う。両拳を挙げ顔面をガードしていたため、直撃こそ免れたものの……前腕に、鋭い痛みが走る。

 何が起きたのか、前川は即座に理解した。唯湖が、左の上段後ろ回し蹴りを放ったのだ。

 上段後ろ回し蹴りは、回し蹴りとは逆方向に回転し、かかとや足裏で相手を蹴る技である。映画やドラマなどの格闘シーンで目にすることの多い派手な技だ。

 もっとも、使いづらい技であるのも確かだった。動きが大きい分、見切られやすく躱すのも容易だ。見せるための技、というイメージが強い。

 ところが、唯湖には天性のバネがある。しかも、回転動作は幼い頃のバレエで経験済みだ。そのため唯湖は、並のキックボクサーにはありえない速さとキレを持つ後ろ回し蹴りを放つことが出来るのだ。しかも当たれば、確実に倒せる威力がある。

 今の前川は、その威力をまざまざと感じていた。前腕には、まだ蹴りを受けた時の痛みが残っている。

 唯湖は、さらに追撃して来る。右のジャブを打った……かに見えたが、それはフェイントだった。次の瞬間、右の横蹴りが放たれる。今度は腹ではなく、顔面めがけ飛んでくる──

 とっさに顔を逸らし直撃は避けたが、鼻のあたりを足裏が掠めた。前川は、思わず下がっていく。

 すると、唯湖の体がまたしても回転した。後ろ回し蹴りの時と、同じ動作だ。

 前川は、反射的に顔面をガードする。先ほどの後ろ回し蹴りの記憶が残っている。あれをまともに食らえば、KOされてしまう。

 だが、当たったのは腹だった。そう、唯湖の左足は前川の腹をえぐっていたのだ。

 一瞬遅れて、息が詰まるようなショックが襲ってきた──


 唯湖は今、左足による中段後ろ蹴りを放ったのだ。蹴り技の中でも、こと衝撃力に関する限りトップクラスである。体の回転を効かせると同時に、体重を乗せて放たれた蹴りは、まともに入れば肋骨をへし折り内臓を破裂させる威力がある。

 前川は、その後ろ蹴りをまともに食らってしまったのだ。一瞬、動きが止まる。

 すると、黒崎の激が飛んだ。


「効いてるぞ! ラッシュだ!」


 その声に、唯湖の動きが一段と速くなった。続けざまに横蹴りを放ち、腹に攻撃を集中していく。前川は、どうにかパンチを振りながら後退し間合いを離した。しかし、腹に強烈なダメージを負ってしまった。

 こうなっては、長期戦は無理だ。短期決戦で行くしかない。多少、強引にでも接近していく。そして首相撲に持ち込む。相手が嫌がって離れようとした時に、パンチで倒す。

 前川は腹をくくり、凄まじい形相で前進していった。左右の回転の速いフックをブンブン振りながら突進する。横蹴りが腹に当たったが、構わず突き進む。

 すると、唯湖の体が回転する。時計と逆の方向だ。左の上段後ろ回し蹴りか、あるいは中段後ろ蹴りか。

 だが、もう遅い。そんな足技を出せる間合いではないのだ。どんな強力な足技も、接近してしまえば威力は激減する。今はもう、完全に足技の間合いを外しているのだ。勝利を確信した前川は、オーバーハンドのパンチを放つ。

 ところが、想定していなかったことが起きる。パンチを打つモーションに入った時、強烈な衝撃が前川を襲ったのだ。硬いものが、前川のこめかみにぶち当たる。それは、今まで食らったことのない一撃だった。

 痛みを感じたのは、ほんの一瞬である。零コンマ一秒後に、前川の意識は途絶えていた。パンチを放とうとした動きのまま、彼女は前のめりに倒れる──


 観客は、しんと静まりかえっていた。何が起きたのか、わかっている者はほとんどいなかっただろう。

 そんな中、レフェリーが慌ててしゃみこんだ。倒れた前川に、何やら語りかける。しかし、応答はない。完全に意識を失っている。

 レフェリーは立ち上がり、両手を振った。試合終了の合図だ。直後、唯湖の片手を挙げる。

 すると、観客席から喚声が上がった──

 

「クソが、左のバック肘とはな。黒崎、さすがだよ」


 別室でこの試合を観ていた石川は、忌ま忌ましげに呟く。もっとも、その口元には笑みが浮かんでいた。どこか嬉しそうでもある。


 今、唯湖が放ったのは……バックスピンエルボー、通称バック肘と呼ばれる技だ。ムエタイでは、一発逆転KOを狙える技として知られていた。

 しかも唯湖の場合、左の前腕がない。したがって、左手による攻撃など誰も警戒しないだろう。だが彼女には、左肘が残されている。

 この左のバック肘こそが、黒崎の授けた秘策であった。中段横蹴りや上段後ろ回し蹴りといった大技で相手を突き放し、時おりの後ろ蹴りや上段横蹴りなどでチクチクと嫌がらせのような攻撃をしていく。

 前川が怒りに任せて前進してきたら、左のバック肘でとどめを刺す──

 この黒崎の作戦は、見事なまでにピタッとハマった。唯湖のバック肘をカウンターでもらい、前川は完全に意識を失っている。

 そう、唯湖は己の失った左腕を、最強の武器へと変貌させたのだ。




 割れんばかりの喚声の中、唯湖は右手を高々とあげる。その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

 と、唯湖は振り返った。己の後ろにいる黒崎を見つめる。

 黒崎は、上を向いていた。こみあげる何かに耐えるように、じっと上を向き必死で仏頂面を作っていた。

 そんな黒崎に、そっと声をかける。


「次は、あんたの番だよ」







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