唯湖の過去・コスモナーフトの小娘(2)


 驚愕の表情を浮かべ、唯湖は黒猫を見つめる。

 こいつ、どこから入って来たのだ? 窓は閉めきってあるし、ドアも鍵はかかっている。違法な薬物にどっぷりハマってはいるが、彼女は用心を忘れたことはない。

 では、どうやって入ったというのだ?


 その時、唯湖は気づいた。目の前にいる猫には、尻尾が二本ある。ということは……。

 不意に、唯湖は笑い出した。どうやら自分にも、来るべきものが来てしまったらしい。


「なるほど、ついに幻覚を見るようになっちゃった訳だ。あたしも、ついに病院行きだね。で幻覚ちゃん、いったい何しに来たの?」


 顔を歪めながら、黒猫に語りかける。どうせ幻覚なのだ。答えなど、返って来ないかもしれない。


「お前、あたしのことを忘れたのかニャ?」


 唯湖の予想に反し、黒猫の口から出たのは流暢な日本語であった。彼女は頭を抱える。これは間違いなく幻覚だ。ついに、薬物が脳を犯し始めたらしい。喋る猫など、この世にいるはずがないのだから。

 その時、唯湖はハッとなった。あれは、確か二十年ほど前のことだ。田舎の村に行った時、喋る黒猫に出会ったではないか。古井戸に落ちた彼女を助け出し、去って行った黒猫。

 名前は、確かミーコだった。家に帰ってから両親や友だちに話したが、皆は夢を見ていたのだろう、と言って誰も信じてくれなかった。唯湖もまた、あれは夢だったのだろうか……と思うようになっていた。

 その喋る黒猫ミーコが、今ふたたび現れたのか?


 不意に、唯湖は笑い出した。


「ったく……幻覚って、こんなしょうもないの? 何で、昔の夢に出てきたキャラが今さら──」


「小娘、お前はコスモ何とかになれたのかニャ?」


 ミーコの口から出た言葉を聞いた瞬間、唯湖は黙り込んだ。コスモ何とかとは、間違いなくコスモナーフトのことだ。

 思わず、歪んだ笑みを浮かべる。昔、宇宙飛行士を目指す少女を主人公にしたアニメが放送されていた。タイトルは『コスモナーフト』。ロシア語で、宇宙飛行士という意味だった。なぜ、ロシア語の言葉を子供向けアニメのタイトルにしたのか、未だによく分からないが。


「宇宙飛行士、ね。なれるわけないじゃん。見なよ、この腕」


 唯湖は、左手の裾を捲って見せる。

 本来、手があるはずの部分には何もない。彼女の左腕は、肘から数センチの部分が残っているだけだった……。


「バイクで帰る途中、酔っぱらいの車が突っ込んできてさ……命は助かったけど、左腕はぐしゃぐしゃ。コスモナーフトもクソもないってわけ。健常者ですら狭き門なのに、これじゃあ無理だよ」


 言いながら、自嘲の笑みを洩らす。しかし、ミーコは黙ったままだ。緑色に光る綺麗な目で、じっと唯湖を見つめている。

 その態度は、唯湖を苛立たせた。


「あたしはね、コスモナーフトになるために必死で努力してきたんだよ。バカなのに理系の勉強をして、博士号を取るために大学院に進学しようとした。余った時間には、ひたすら体を鍛えた。だから家に帰っても、体力も気力も残ってない。ただ食べて寝る、それだけだったよ」


 熱に浮かされたような表情で、唯湖は語る。それでも、ミーコは黙ったままだ。


「食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まず、お洒落もせず、男とも付き合わず、遊びも知らずにずっと努力だけしてきた。なのに、酔っぱらいの車が突っ込んできて全てがパー。どうせ叶わない夢なら、努力なんかしなきゃ良かった。まったく、無駄な時間を過ごしただけだったよ」


 唯湖は、いったん言葉を止めた。それらは、彼女の胸の内にくすぶっていた思いだった……。

 またしても自嘲の笑みを浮かべ、再び語り出す。


「叶わない夢のために、無駄な努力を重ねて……あたし、本当にバカだよね」


 その言葉を聞いた時、ミーコはため息のような声を洩らした。


「お前がアホなのは、ずっと前から知ってたニャ。で、今の暮らしは楽しいのかニャ?」


 静かな口調で、ミーコが尋ねてきた。唯湖は、不快そうに顔をしかめる。


「まあ、あの時よりはハッピーに過ごせてるよ。なんたって、疲れることは一切しなくていいしね」


「それは本音なのかニャ? コスモ何とかを目指していた頃と、今。どっちが楽しかったのかニャ? 本当の気持ちを、正直に言ってみろニャ」


 なおも問い続けるミーコに、唯湖の顔が歪む。なぜか知らないが、無性に腹が立ぅた。


「今の方が楽しいって言ってるでしょ! しつこいんだよ! さっさと消えてよ!」


 怒りも露に、怒鳴りつける。すると、ミーコは面倒くさそうに毛繕いを始めた。


「そうかニャ。まあ、お前がそう言うなら、そうなんだろうニャ。あたしには関係ないけどニャ」


 どうでもよさそうな口調で、ミーコは毛繕いを続ける。唯湖のことなど、見ようともしていない。

 その姿を見た時、彼女の中で何かが弾けた。


「すかしてんじゃねえよバカ猫が! さっさと消えろって言ってんだろ!」


 怒鳴ると同時に、テーブルに置いてあったコップを手にする。

 その中に入っていた水を、ミーコにぶちまけた。水は狙いたがわず、黒猫の体にかかる。

 ミーコは濡れた体で、チラリと唯湖を見つめる。直後、いきなり空中に飛び上がった。

 すると、ミーコは黒猫から人間の姿ヘと変わったのだ……あの日と、同じように。

 呆然となる唯湖に、ミーコはつかつか近づいていく。

 次の瞬間、無造作に唯湖の首を掴む。、片手で、高々と持ち上げた──


「小娘、あたしは四百年も生きてる化け猫ミーコさまだニャ。あたしは、礼儀を知らない失礼なクズは嫌いだニャ。今すぐ、殺してやろうかニャ」


 ミーコの口調は、ひどく落ち着いたものだった。しかし、その腕力は尋常なものではない。片手で、軽々と唯湖の体を持ち上げているのだ。握力もまた凄まじい。彼女を殺すことなど、造作もないだろう。

 だが不思議と、唯湖に恐怖心はなかった。むしろ、早くやって欲しかった。


「やりたきゃりなよ。早く殺してよ」


 その言葉に、ミーコは何も言わなかった。黙ったまま、じっと唯湖を見つめている。その沈黙が、さらに気持ちを高ぶらせる。

 そのままの体勢で、なおも喚き散らした。


「さあ、早く殺んなよ! あたしなんか生きててもしょうがないんだ! さっさと殺しなよ! ほら早く──」


 その瞬間、ミーコは唯湖を投げ飛ばした。唯湖は床に叩きつけられ、苦痛のあまりうめき声を洩らす。

 そんな彼女を、ミーコは冷たい表情で見下ろしていた。


「お前は、あたしが手を降す価値もないクズだニャ。そんなに死にたきゃ、自分でやればいいニャ。あたしは止めないニャ」


 ミーコの言葉は冷たかった。先ほどまでの、とぼけた口調とは完全に真逆である。唯湖は下を向き、唇を噛み締めた。怒りと悔しさとで、彼女の体は震えている。

 だが、ミーコの言葉は終わらない。


「コスモ何とかを目指していた頃のお前は、本当にアホだったけど、眩しいくらい綺麗な目をしていたニャ。でも今のお前の目は、恐ろしく汚ないニャ。お前の腐った心は、どんな妖怪よりも醜いニャ」


 ミーコの言葉は、唯湖の心を深くえぐっていく。だが、唯湖は何も言い返せなかった。ミーコの放った言葉は、彼女自身もずっと感じていたことだった。


「気づいていないみたいだけど、お前の腐り果てた心の匂いが、この部屋の中に充満してるニャ。こんな臭い部屋にいられないから、あたしは帰るニャよ」


 淡々とした口調で言うと、ミーコは窓に向かい歩いて行く。

 だが、足を止めた。


「もうひとつだけ、お前に言うことがあるニャ。お前はさっき、無駄な努力をしてきたと言ったニャ。でも、お前の努力は本当に無駄だったのかニャ? コスモ何とかになれなかったから、今までの努力は全て無駄になった……本当に、そうなのかニャ? お前の努力の成果は、心と体の中で眠っているのに、お前がアホ過ぎてそれに気づいていないだけなんじゃないのかニャ?」


「えっ?」


 唯湖は顔を上げ、ミーコを見つめる。

 だが、ミーコは彼女のことを見ようともしていなかった。背中を向けたまま、冷たい口調で言葉を続ける。


「この先、どうするかはお前の自由だニャ。クズのまま、無様に生き続けるも良し。死にたいなら、自分の手で人生を終わらせるも良し。違う生き方をするも良し。決めるのは、お前だニャ」


 次の瞬間、ミーコの姿は消えていた。


 ・・・


 唯湖は、ハッと目覚めた。

 窓からは、陽の光が射している。どうやら、うたた寝をしてしまったらしい。


「大丈夫か? お前、うなされていたぞ」


 そっと声をかけてきたのは黒崎だ。心配そうな顔で、彼女を見つめている。

 唯湖は、笑みを浮かべた。


「うん、大丈夫」


 答えた後、ためらいながらも尋ねる。


「あのさ……妖怪って、いると思う?」


「よ、妖怪?」


 困惑し、聞き返す黒崎。唯湖は苦笑し、彼の肩にそっと触れた。


「ごめんごめん、冗談だから。妖怪なんか、いるわけないよね」


 そう、いるわけがないのだ。

 あれは、ただの幻覚だ。薬物によりボロボロになった心が見せた幻でしかない。あんなものが、本当に存在するわけがない。

 その時、黒崎の口からとんでもないセリフが飛び出した。


「妖怪は知らんが、怪物になら遭ったことがある」


「はあ? 怪物?」


 驚き、彼の顔をまじまじと見つめた。だが、黒崎は真剣そのものの表情である。


「昔、恐ろしい男に出会った。立ち合ったが、まるで歯が立たなかったよ。あれは、本物の怪物だったな」


「へえ、そんなのがいるんだ」


 目を丸くしている唯湖……そんな彼女の顔を、じっと見ているものがいた。

 いつの間に現れたのか、ベランダに黒猫がいたのだ。二本の尻尾をくねらせ、緑色の瞳で室内を見つめている。

 ややあって、黒猫は姿を消した──







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奴らの誇り、そして闘い 板倉恭司 @bakabond

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