虎の穴
試合が終わった二時間後、元司はとある店にいた。派手な音楽が鳴り響き、けばけばしい化粧をした女……いや男たちが、ゲラゲラ笑いながら客に酒を注いでいる。
「モトさん、久しぶりじゃないの。どうしたの?」
ひとり静かにグラスを傾けている元司に話しかけてきたのは、非常に大きな人物である。プロレスラーの元司が小さく見えるほどの巨漢であるが、その体には赤色のドレスをまとっている。髪は金色のショートに、どぎついアイシャドウと紫色の口紅だ。この姿は、初めて見る者を圧倒するだろう。
そう、彼女(?)こそが、ゲイバー『虎の穴』のママであるラジャ・タイガーなのだ。
「まあ、いろいろあってな。俺も、もう歳なのかね……」
呟くように言った元司に、ラジャは顔を近づけていく。
「ちょっと、何言ってんのよ。アンタは、まだ元気じゃないの」
「いや、いつまでもプロレスにしがみついてていいのかな、ってさ。近頃は、体のダメージも抜けなくなってきた。そろそろ潮時かもな」
そう言った後、元司は顔を上げた。
「お前は、ちょうどいい時期に辞めたよな。たしか、八年前だったっけ」
「そうよ、もう八年になるわね。アタシがまだ、うら若き二十歳の乙女だった時代──」
「黙って聞いてりゃ、適当なこと言いやがって。お前、俺と三つしか違わねえだろうが」
そう、ラジャは元司の三歳下である。現在は四十二歳のはずだ。
「ちょっと! 女の可愛い嘘に目くじら立てるもんじゃないわよ! ったく、そんな性格だから、未だにひとり身なのよ!」
きゃんきゃん騒ぎ立てるラジャを無視し、元司はグラスの中身を飲み干した。
・・・
真・国際プロレスが、まだ業界において最大手の団体だった頃の話である。
プロレスラーとしてデビューし二年になる元司の前に、体の大きな若者が現れた。百八十センチの元司よりも、頭ひとつ分くらい大きい。肩幅は広く、骨格もしっかりしている。それでいて、姿勢に歪みはない。
どこからどう見ても、一流のアスリート体型だ。
「元司、こいつは
当時、若手のコーチをしていた
青年は、慌てて頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします!」
ペコペコ頭を下げる本郷を見て、元司は思わず苦笑した。図体は大きいが、気は優しいタイプのようだ。その気の優しさが、顔にも出ている。実に迫力のない風貌だ。
こいつはデカいし才能もありそうだが、エースになるのは難しいかもしれない……そんなことを思いながら、元司は口を開いた。
「そう堅くなるな。よろしく頼むぜ」
それからの本郷は、元司の予想に反し、あっという間に出世していった。
巨体でありながら運動神経は良く、演技も出来る上に対応能力も高い。唯一の欠点であった優しそうな顔も、マスクを被ることで解決した。
マスクマンのラジャ・タイガー……彼は真・国際プロレスの当時のエースであるクラッシャー木村に次ぐ存在として活躍していく。当時は夜の八時にテレビ放送もされ、視聴率も稼いでいた。
しかし、国プロの天下も長くは続かない。
突然、何の前触れもなくラジャ・タイガーが引退したのだ。
しかも引退会見では女装した姿で現れ、記者たちの度肝を抜いた──
・・・
そこから、国プロの凋落が始まった。
元司は、目の前にいる巨漢の女装家に対し複雑な想いを抱いている。この男の突然の引退により、多くの人間が迷惑を被った。それを機に、国プロの評判が一気に落ちたのも確かである。将来のエース候補であり、ナンバー2でもあった人気レスラーのラジャを、あっさりと手放してしまった……この事実は、会社の評価を下げこそすれ上げはしない。
もっとも、ラジャの気持ちも理解できなくもない。当時の彼は会社の道具として使われ、プライベートな時間など存在してなかったのだ。元司は、ラジャから何度も個人的に相談を受けていた。また、彼の悩みも聞いていた。その悩みの中には、ラジャがゲイであることも入っている。無論、元司はその事実を誰にも言わなかった。
会社とラジャ、どちらの言い分も理解できる。だからこそ、どちらの味方もできない。
「ちょっとモトさん、聞いてんの?」
ラジャにつつかれ、元司はハッと我に返る。
「あ、ああ。悪いな、ボーッとしてたよ」
「もう、そんなんだから未だにひとり身なのよ!」
言いながら、ラジャは元司の肩をバンバン叩いた。腕力の強さは変わっていない。この男がガチの格闘技をやっていたら、どうなっていたのだろう。
「ところでさ……お前は、相撲の世界に入ろうとは思わなかったのか?」
元司の問いに、ラジャの目がつり上がる。
「相撲? 冗談じゃない! アタシは、あのマゲとマワシを見るだけで気分が悪くなるのよ!」
「ああ、そうなのか。そりゃ、悪いこと聞いたな」
マゲとマワシが嫌い、という理由で角界入りを選ばなかったのか。なんとも惜しい話である。相撲も完全にガチの世界ではないかもしれないが、それでもプロレスよりはマシだろう。
もっとも、今なら何となく理解できる。人にはそれぞれ、どうしても出来ないことがあるのだ。仮に元司が、ラジャと同じ格好で店に出ろと言われたら……それは無理だ、と答えるだろう。
「全く、モトさんは意地悪なんだから。でも、そこが魅力なのよね。怖い顔とキツい言葉、そっから時おり出てくる優しさ……今の女どもは、見る目がないわね。モトさんの魅力が分からないなんて」
「気持ち悪いこと言うんじゃねえよ」
顔をしかめる元司を、ラジャは熱い眼差しで見つめる。
「セメントの練習、本当にキツかったわ。でも、モトさんがパートナーだったから、アタシ続けていけたのよ。モトさんは、飴と鞭の使い方が本当に上手かったから……アタシ、モトさんにすっかり調教されちゃったのよね」
「だから、気持ち悪い言い方すんなってんだろ!」
言いながら、元司はぷいと横を向いた。
・・・・
セメントとは、喧嘩に近いガチの闘いである。プロレス界の隠語なのだ。
もっとも、このセメントは……プロレスのリング上では、絶対にやってはいけないことだ。プロレスは、観客を楽しませることこそが重要である。実際に強かろうが弱かろうが、そんなことはどうでもいい。
会場に来ている観客の前でいい試合をして楽しませ、さらに多くの観客を呼べる……それこそが、プロレスラーにとって一番大事なことだ。したがって、セメントの練習などしても仕方ない……そう言う考えのレスラーも少なくない。
事実「あいつはセメントが強い」という評判は、必ずしもレスラーとしてプラスの評価にはならない。むしろ「セメントのノリをリング上にまで持ち込むかもしれない男」として、警戒される可能性すらあるのだ。セメントが強いからといって、自慢するレスラーなどまずいない。
にもかかわらず、元司はセメントの練習を欠かさなかった。当時、国プロでセメントの練習に真剣に取り組んでいたのは、元司と先輩レスラーの
「セメントが強くないと、相手になめられちまう。試合中、何されるか分からねえぞ」
それが、先輩である藤吉の口癖である。事実、藤吉はアメリカにてプロレス修行をしていたが、修行中は白人レスラーから陰湿な嫌がらせを受けたのだ。その男は差別的な言動を繰り返し、リング上でもまともにプロレスをしようとはしなかった。
さんざん嫌がらせされたため、たまりかねた藤吉はリング上で制裁する。試合中に、相手をバックチョークで絞め落としたのだ。以来、彼に対する嫌がらせはなくなった。
そんな先輩と、毎日のようにセメントの練習をしていた元司。関節技の極め合い、絞め技の攻防、打撃技の防ぎ方、さらには藤吉独自の危険な裏技など……元司はめきめきと実力を付けていき、セメントで彼に対抗できる者はいなくなってしまった。
しかし、ラジャこと本郷昭一の存在により、力関係はまた変化する。
本郷は、積極的に藤吉や元司に挑んでいった。初めは簡単に関節技を極められたり、絞め技で落とされそうになっていたが……時が経ち、様々なテクニックを身に付けていく。
そうなると、持ち前の身体能力も加わり、本郷はセメントで元司と互角に闘えるほどのファイターへと成長した。
もちろん、プロレスラーとしてのランクは、本郷の方が遥かに上である。マスクマンのラジャ・タイガーとなってからは、真・国際プロレスの次世代エースとして期待されていた本郷。試合も、メインクラスが多い。一方の元司は、当時から中堅の悪役ポジションに定着していた。
だからといって、本郷の態度が変わったわけではない。彼は元司を先輩として立てていたし、藤吉にもまた同様である。
藤吉、元司、本郷……この三人は、周囲から「藤吉組」などと呼ばれるようになる。さらにその後、もうひとりの若者が藤吉組へと加わった。
その若者こそが、後に国プロのエースとなる吉田勝頼である。だが、当時はまだ入団したばかりのヒヨッコだった。
・・・・
「あん時は、良かったな」
元司は、誰にともなくボソリと呟いた。そう、今は違うのだ。藤吉組も、みな変わってしまった。
本郷はゲイであることをカミングアウトし、引退してゲイバーを開いた。今では、ラジャという名前のママとなっている。
セメントの師匠であり、藤吉組の組長だった藤吉は、既にこの世にない。去年、病気で亡くなってしまった。
吉田は今や、弱小団体となった国プロを支える大黒柱である。押しも押されぬメインイベンターだ。
あの時とは、何もかも変わってしまったのに……自分は、未だにおめおめとプロレス界にしがみついている。
あの時と全く変わらぬボジションのまま、年齢だけを重ねている。
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