第6話 三日目① ~インシャッラー~


 今日は朝から車でサフランボルへ移動だ。運転はアイテンさん。都市間を結ぶ長距離バスでの移動も提案したが、戯談じょうだんじゃない、の一言で却下された。


 ところがアンカラから出る幹線道路の工事にぶつかって、今は大渋滞に巻き込まれている。イスタンブルでは日常茶飯事の渋滞だが、アンカラでは珍しい。

 ひるまでに着くか、と訊ねると、アイテンさんは前を向いたまま

「インシャッラー」

 と答えた。


 トルコでは毎日幾度も耳にする言葉、インシャラー。

「神の御加護があるならば」ぐらいの意で、最強の返答の辞だ。

 用法は例えばこんな時。


「今度、家に遊びに来てよ」

「この仕事、明日までに頼む」

「また会えるといいね」

「明日、晴れるかな」


 いずれも返事は、インシャラー。

 出来るかも知れないし、出来ないかも知れない。全ては神の御心のままに。

 この世の出来事は何であれ神が定め予定したもうたものなのだから、仮令たとえ約束をたがえたとしても、それは自分の所為ではない――という意味が言外に込められている。


 もう一つ、似た言葉に「マーシャラー」と云うのがあって、これも頻繁に使われる。意味は「神の御加護のお陰で」と云ったところか。何事も、神だ。


「どう? 体調はよくなった?」

 と丁度出てきた問いかけに、お陰様でマーシャラー、と答えた。つまり、こう使うのだ。


 この両語は、トルコに限らず、アラビア語圏あるいはイスラム文化圏で広く使われているらしい。



 車が流れ出すと、彼女の口吻くちぶりも滑らかになった。

 そこで今日の仕事の再確認。

 今回は少し厄介らしいのだ。と云うのも、標的ターゲットは既に二度自殺未遂を起こしている。当然、刑務所の看守達は再発を防ぐため厳重に監視しているだろう。


「ちょっと難しいけど、依頼者は組織の上顧客おとくいらしいの。しっかり成功させてね」

 インシャラー、と冷淡に答えると彼女は心配を隠そうともせず眉をひそめた。


 実は私は、今回の仕事には、どうしても気が乗らない。

 標的は自殺志願者。

 依頼者はその両親。息子の想いを遂げさせてやって欲しい、が理由だそうだ。


「気が楽でいいじゃない。死にたいってに手をしてやる丈なんだから」

 アイテンさんは呑気に笑うが、私の考えは違う。


 自殺は罪だ。

 そう呟いた私の言葉を、彼女がう受け止めたかは分からない。


 私や、他の誰であろうと生命を得て此の世に生まれ落ちたのは、数億分の一かもっと頼りない偶然の上に成立した紛れもない奇蹟であって、およそ考えられぬほどおおきな恩寵なのだと思う。

 生者のうしろには生命に成れなかったモノたちに加えて、生まれ落ちた瞬間から生命を失っていく者たちが無数にいる。

 故に生ある者は、生ある限りは懸命に生きるべきだ。他の億万のモノたちが渇望して諦めて、羨み妬みながら寿いわって、また庶幾こいねがってなおつこと叶わなかった生命を、ゴミのようにげ棄てるのは冒涜だと思う。


 だがそんな重荷を勝手に負わせられる謂われは本当はないのかも知れない。人は皆(そして、すべての生ある者は皆)利己的であってい。唯だ、おのれを殺すことは、絶対的に利己に反する行為だ。悩み苦しんだ末自死を択んだ者を鞭打つつもりはないが、やはり自身の生命に対する罪は免れないと思う。


 その貴い生命を奪うのが稼業の私が云うなど、片腹痛いと嗤われもするだろう。嗤う処か痛罵されるのが正当かもしれない。だがそれでもやはり、云わずにはいられない。自ら死んではならないと。



  * * *



 サフランボルはその名の通り、かつては香料サフランの集積地として栄えた街だった。

 近代に至って主要交通路から外れたこの街は、発展から取り残されたためにいにしえの町並みが現代にのこり、却って脚光を浴びて二十世紀末に世界遺産に登録されている。


 観光地として殷賑にぎわうと云うほどでもなく、温かい木材と白い漆喰とで埋められた保存地区の通りは穏やかな表情を見せていた。


 サフランボルに限らず、アナトリアは歴史好きには垂涎の歴史的遺産の宝庫なのだがその多くは観光客で溢れることなく、落ち着いて見て回ることができる。ヒッタイトの都ハットゥシャしかり、ミダス王(「王様の耳はロバの耳」の主人公)やアレキサンドロス大王にも縁あるゴルディオン然り。


 旧い町並みとこぢんまりした市場バザールに疎らな人影が心地よいサフランボルで、アイテンさんが連れて行ってくれたレストランはピデの店。ピデとは、トルコ風のピザのこと。舟型のピザ生地の上にたっぷりチーズを乗せ、窯で焼く。

 注文してから生地を整え始めて、ほんの三分も待てば出来上がり。実にシンプルだが、これが美味しい。


 もう一品、アイテンさんが注文していたのが、ラフマジュン。

 挽肉トッピングの薄焼きピザ、と云ったところか。これに野菜を乗せレモンをかけて、まるめて食べる。香辛料が独特の風味で、人によっては抵抗があるかも知れないが、好きな者には癖になる。

 トルコ南東部、シリアとの国境近くの街ガジアンテップの名物料理だ。何故サフランボルでこの料理、と思わないでもない。ちなみにガジアンテップ名物と云えば、ピスタチオもその一つ。


 トルコはオスマン帝国の継承者で、ほぼ全国民がイスラム教徒だ。均一な文化、民族、人種と思われるかも知れないが、それは違う。

 そもそもオスマン朝は、多民族・多宗教を束ねる世界帝国だった。

 ガジアンテップを含めた南東部にはクルド人が多く、彼ら自身トルコ国民と思うことはあってもトルコ民族だとは思っていないだろう。近年ようやく武力闘争は下火になったものの陰に陽に対立は残って、未だに火種はなくならない。

 或いはアイテンさんの出自――エーゲ海沿い、イズミール出身の彼女は、人種的にはギリシア系だ。ムスリムであることは間違いないが、この地域の信仰は総じて開放的らしい。彼女はスカーフをせず、人前で酒を飲み、豚肉さえも少量ならば口にする。


 そして、今回の殺しの標的ターゲットは、隣国アゼルバイジャンの出身者だ。


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