第3章 チェコ・オーストリア

第21話 初日① ~ヴルタヴァ川・ピルスナー~


 世界を随分狭く感じるようになったのは機械文明の発達が主要因であるのは勿論だが、それは地球上に平和が保たれていてこそ可能であったと今更ながらに思い知らされた。世界を揺るがしている紛争のために日本とプラハとを結ぶ最短ルートを採用できず、思いがけない長旅を余儀なくされたのだ。


 奇しくもプラハは、聖俗問わず大権力に翻弄された歴史をつ街である。自身の小さな受難と街の巨大な歴史的災厄とを重ね合わせる不遜を思うと苦笑が零れ、長旅の疲れも不快も彼方へえ去った。長く憧憬して已まなかった地に降り立ったと云うのにささやかな不如意をかこっているようでは勿体ない。


 待ち合わせていたエージェントとロビーで合流する。ダヌシュカさんという彼女の名をロシア人の名に近い響きと感じたのは、おそらく故ないことではない。チェコ人はスラヴ系であり同じスラヴ系のロシアとは言葉に親和性があるのと同様、人名に通じるところがあっても可怪おかしくないだろう。その事情は例えば、ウクライナやスロヴァキアにも通ずるのかも知れない。


 ダヌシュカさんの隙のない出で立ちは如何にも能吏と云う第一印象で、気分は観光から一瞬で仕事へ引き戻された。非合法且つ非倫理的な仕事へ。

 私は刑務所内専門の殺し屋だ。この特殊な分野に於いて私の右に出る者はなく、世界中から依頼が引きも切らない。私自身は廃業を願っているにも拘わらずだ。職業に貴賤無しとは云われるが、何事にも例外はある。私が胸を張って家族や友人に生業を明かす日は決して来ないだろう。


 ダヌシュカさんの運転で空港からプラハ市街へ。しばらく進むと右手に聳えるプラハ城が出迎えてくれる。城の中に建つ聖ヴィート大聖堂の尖塔を眺めながらさらに進むと、やがてヴルタヴァ川がったり流れるのが眼下に見えてきた。川のうえには遊覧ボートが二隻泛ぶ。城の目前で川は大きく曲がって、幾つも橋が架かっている。橋を渡れば、その先は愈々いよいよプラハ市街地だ。

 残酷な使命を帯びた旅だと云うのに今回ばかりは心が躍るのを止められない。街に入ると仕事モードから再び聖地巡礼の高揚感に浸ってしまう。そう。此処はフランツ・カフカの生地なのである。街路の一つ一つに彼の息吹が残っている気がする。



 ホテルは旧市街、即ち在りし日のユダヤ人居住区の一角にあった。チェックインし荷物を置いた後、ダヌシュカさんの案内で近くのホスポダへ向かう。ホスポダとはチェコの居酒屋と思えばい。入った店は、チェコ郷土料理が旨くて特にお薦めなのだとのよし


 席に着けばまずはビールだ。チェコはビール大国で、国民一人あたりのビール消費量は世界一と云われている。店内は昼からビールをもとめる客たちで溢れて、ビール大国の名に恥じない賑わいようだ。郷に入っては郷に従え、のおしえにしたがい私もビールを消費しよう。


 出てきたのはピルスナー・ウルケル(チェコ語ではプルゼニスキ・プラズドロイ)。実はウルケル社は日本の某ビールメーカーの傘下にある。だから日本人の喉にも合うのかとも思ったが、流石にそれは牽強付会と云うべきだろう。そもそも日本のビールは悉くピルスナースタイルなのだから、それに慣れた日本人が旨いと感じるのに不思議はない。


 ウルケルはピルスナービールの元祖だ。ピルスナーとは同社発祥の地ピルゼン(チェコ語だとプルゼニ)に由来する名であるらしい。十九世紀半ば、此の地の軟水を使い安価で良質なビール製法が編み出されたのがビールの革命となった。ところが彼らは製法特許も商標登録も、思慮が至らなかったのか実施しなかった。そのため他が自由に模倣・追随し、遂にピルスナーのと味と製法とは世界中に広がった。

 それが幸であったのか不幸だったのかは知らないが、世界のビール党たちには紛れもなく僥倖であったと云えよう。


 ほどなく出てきた料理はスヴィーチコヴァーという名で、煮込んだ牛フィレ肉がクリームソースに浸かっているものだ。そこにクネドリーキと呼ぶ白パンがついてくる。もっちり食感で定番のパンは日本人にとっての白米と同じで、チェコ料理には欠かせない。二片ふたきれか其処らで優に腹が膨れる。

 つづいて揚げチーズが出てきた。これにはタルタルソースをかけて食す。付け合わせのポテトは皮ごと茹でたものが十個とおばかり。タルタルでもいが、シンプルに塩をかけて食べるのも旨い。


 昼からビールが進んでしまう。二杯目は黒ビールにした。銘はコゼル、これもウルケル社の製品らしい。黒ビールにしては癖がなく、飲み易い。黒ビール好きにはやや物足りないかも知れないが、私は悪くないと感じた。


 昼食をえると、ひとりで大丈夫だからとダヌシュカさんとは別れ、独り街を歩くことにした。個人的趣味全開の観光にお付き合い頂くのは公私混同だろうと考えたのが理由の一つ。今一つは、誰に気兼ねすることなく自分のペースで静かに街を歩きたいからだ。


 ヴルタヴァ川の川岸に下りて、おおきく息を吸った。岸には遊覧ボートが二隻接岸されていて客が三々五々入っていく。先刻さっき見たボートはあれだったのだろうか。他所見よそみするうち橋を一つ通り過ぎる。その先にも二つ橋が見えている。

 川向こう、橋のたもとから見上げる城は緑なすおかの上に映えて、堂塔の聳え立つ姿に圧倒される。嘗てカフカも同じように此処を歩いて心打たれたのだろうか。彼は『城』と後に友人が名づける小説をノートに書き綴っていた。小説の中で技師Kは、何時までも城の内部へ辿り着かない。そしてカフカは、この小説を何時までも書き上げることがなかった。未完であることさえもがこの作家と作品にとっては、うでなくてはならない完成形であったかに思えてならない。


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