第11話 二日目① ~移民たちの都~


 ブラジルで朝食を指す言葉は直訳すると「朝の珈琲」。ことが物の本質を幾分なり反映するのだとすれば、彼らのなかでそれは飽く迄珈琲。食事ではないのだ。その割にボリュームは決して小さくないのだが。


 ブラジルの朝食につきものと云えばパン・デ・ケージョ。チーズ風味のもっちりパンだ。

 日本の某ドーナツチェーンの「ポン・デ・リング」は恐らくこれをモデルにしているのではないかと思う。チーズ風味ではないにせよ、あの食感はパン・デ・ケージョを髣髴とさせる。そして、日本語にもなっているポルトガル語の「パン」は、発音は心持ち「オ」が雑じって「パォン」。

 発音と云えば、「朝の珈琲」を現地語で発音すると「カフェダマニャン」……響きが妙に可愛い。「マニャン」は「朝」の意だ。

 ちなみに、「明日」は「アマニャン」。

 マニャン・アマニャン・カフェダマニャン(朝・明日・朝食)。ブラジルの、朝の三段活用だ。全身を刺青で埋め尽くしたマッチョな、んないかつい男も毎朝ニャンニャン口にするのだと思うとなんだか微笑ましい。


 朝食を了え部屋へ戻ろうとした丁度その時、クリスティナさんがホテルに着いた。ロビーで声をかけられ、挨拶はハグと接吻ベージョ

 この挨拶はブラジルではごく一般的で、男女間でも女性同士でも其処らじゅうでハグしている。そして頬に唇を寄せ、キスするような音を立てる。但し実際に唇をつけるとは限らないようだ。

 初めてブラジルを訪れた時は随分途惑ったものだが、そのうち慣れた。とは云え、白人・黒人を相手のハグはまだ平常心で出来ても、日系人が相手となるとうは行かない。日本人と全く同じ姿をした女性とのハグは、妙に生々しくて苦手だ。


 ちなみに男性同士でも勿論ハグはするが、男女間・女性同士に比べると頻度は落ちるような気がする。接吻はさらに少ない(おそらく)。



 サンパウロは南米最大の人口と経済を誇る巨大都市だ。近郊地域も含めると抱える人口は二千万人、南米のみならず南半球最大の都市でもある。

 その真ん中に位置する「パウロっ子通りアヴェニーダ・パウリスタ」は金融・商業の本社が軒を連ねる大通りで、人が絶えない。


 片側四車線の大きな道路。その下には地下鉄が通っている。

 街路に植えられた様々な樹々に草花。ジャカランダの花が道に散って、人びとの踏むがままに任されている。


 今夜の仕事までは時間があるのでサンパウロ散策でも、とリベルダージの日本人街を訪れることにした。どうせなら地下鉄を使ってみたいところだ。

 私の希望に、クリスティナさんは「もの好きですこと」とでも言いたげな顔をしたが、肩を竦めて、鞄とポケットに警戒するようにとだけ注意した。


 ブラジルは犯罪多発国として知られている。中でも膨大な人口と旅行者を抱えるリオデジャネイロとサンパウロが二大犯罪都市だ。そのサンパウロの地下鉄とくれば少し身構えたが、入ってみると明るく広い構内は意外なほどに安全に見える。

 群青色の車体は重厚で、車輛間の往き来が出来ないことだけが違和感を与えている。地上の風とは異なるくらい音の響くなか、我々は目指すリベルダージ駅に着いた。正式には「ジャポン・リベルダージ駅」と呼ばれる。駅名に「ジャポン」が冠せられたのは最近なのだそうだ。皮肉なことに、その頃には中国人や韓国人が街に増え始めていて、今や日本人街と云うより東洋人街と呼ぶ方が実体に近しくなっていると聞いた。


 とは云え、やはり世間の認識は日本人街――しかも世界最大規模の日本人街だ。(ロサンゼルスのリトル・トーキョーと双璧とされる)

 日本食レストランが軒を連ね、店では日本語が通じ、通りには日本語が溢れている。日本の牛丼チェーンが店を構えて、隣のミニスーパーには日本食材が一面に並ぶ。なるほどこれは便利だ。某ハンバーガーチェーンの看板もカタカナ。だがよくよく注意して見ると簡体字やハングルがじっている。

 ふと見上げると、街灯が提灯の形を模していた。


 その先に見えるのは古い教会。此処はかつて、逃亡奴隷の処刑場だった。此の地を「解放リベルダージ」と呼ぶとき人々の脳裏に去来する想いは複雑だ。


 サンパウロには現在百万人を超える日系人が住んでいるのだと云う。二代、三代と継いでいくうち日本語を話さなくなる者も増え、他の民族と結婚する者も勿論あり、その紐帯は次第に緩やかになりつつはあるようだが、それでも彼らの心には「ニッケイ」が自らのアイデンティティとして保たれている。ブラジル人であることのほこりと、源流を日本に持つことの矜りとを同時にいだく彼ら日系ブラジル人は、日本列島に生まれ育った日本人以上に日本を愛しているのかも知れない。



 南北アメリカ大陸に住む十億人からの人口の大部分は、十五世紀末以来旧世界から押し寄せた者たちの末裔で占められている。コロンブス以前からこの地にいた先住民は、新旧大陸の邂逅より百年の間にその人口を激減させた。勢い植民地経営は、欧州人やアフリカ大陸から運ばれてきた人々の労働力に頼るより他なかった。

 その時点で既に新大陸は移民の国と云えそうだが、ブラジルを多民族・移民の国とするに至る真の民族大移動は十九世紀以降に起こる。


 十九世紀末に奴隷制を廃止したブラジルはその後各国から多数の移民を受け入れた。イタリア、ドイツ、東欧やウクライナ。中東のシリア、レバノン。そして日本。

 彼らが幸せであったか如何どうかは疑問だ。所詮奴隷の代わりの労働力である。劣悪な労働環境にイタリア人移民は反乱を起こし、日本人移民は夜逃げした。

 逃げた者たちは日傭い仕事に露命を繋ぎ、あるいは自ら密林に農園を切り拓き、あるいは政府補助を得たり金を出し合ったりして農地を取得し、血を吐く思いで南米の地に生きる足掛かりを作り上げた。


 苦労して未開の地に農園を拓いた日系移民は、種々いろいろな農作物の栽培に挑戦して農業大国ブラジルの礎を築いた。今では彼らは社会でそれなりの地位を占め、相応の尊敬を払われている。

 此の地で日本や日本人が親しみと敬意を以て迎え入れられるのは、一面に於いては彼らの百年の艱難辛苦のお蔭だ。日本からの進出企業は、多分にその恩恵をこうむっている。


 ブラジルではくも存在感を誇る日系人だが、世界で活躍する東洋人移民と云えば中国人だろう。

 華僑のネットワークには実に舌を巻かされる。かつて華僑の同僚と世界を廻ったことがあるが、東南アジア諸国は勿論、アメリカ合衆国でもオーストラリアでも華僑の仲間が在って歓待してくれた。困ったことあれば百年の知己のようにたすけの手を伸べてくれる彼らの姿に、華僑社会の底力を感じたものだ。それと同様の援けを日本人が得られるブラジルは、稀有な国である。

 もっとも華僑のなかにも派閥や系統はあって、表面上は援けても心の奥では気を許していなかったり、中には仇敵同然にいがみ合う者もあるらしい。


 日本人は彼らほど世界中を闊歩するバイタリティーを持たないように見えてしまうが、南米で逞しく生きる日系人を見ると、本来うではない筈だとも思う。居心地の良い極東の揺籃ゆりかごを飛び出し異国で活躍する日本人が二十一世紀にも輩出されることを願ってまない。



  * * *



 昼食はリベルダージ近くのレストランで。

 ブラジル料理と云えばずシュラスコが思い泛ぶだろうが、ブラジル人の愛する国民食としてフェイジョアーダをその前に挙げてもあながち間違いではあるまい。


 豆をベースにした黒いスープの中に、輪切りにしたソーセージやモツ、肉の欠片などがたっぷり入っている。滋養とコスパに優れたこの料理、元は奴隷や使用人に食べさせる為の料理だったらしい。それがういう経緯か幾百年いくももとせを経て、今やこれさえ出しておけば大人も子供も大喜びの国民食である。日本人にとってのカレーライスか、それ以上の存在感だ。


 白飯の上にフェイジョアーダをかけると、途端に皿の上一面が黒くなった。お汁粉のようなねっとりとしたスープに、やはりお汁粉に入っていそうな割れた豆。その間をごろごろと肉などの具が転がる。

 これに具を入れる前の、豆だけのものはフェイジョアォンと呼ばれ、これもポピュラーな料理だ。豆だけになると愈々いよいよ見た目はお汁粉のようになる。普通は米飯ごはんにかけるのだが、試しに砂糖と餅を入れて食した日本人がいたらしい。勿論お汁粉とは似ても似つかぬ味で、食えたものではなかったそうだ。


 殆ど脂ばかりのような肉や、(骨付きの肉ではない)に内臓モツと云った、屑肉とでも呼ぶべき部位が多いが、その中にたまに見つかる当りを引くのが楽しいのだとクリスティナさんは云った。むしろ私は、脂の塊のような肉を好んでった。女性ならばコラーゲンたっぷり、と喜ばれそうなぷるんとした食感に濃厚なスープ。

 フェイジョアーダにはオレンジが付き物だ。こってりしたフェイジョアーダにまみれた口の中を、柑橘で爽やかにしようと云うのだろう。同様に口直しせよと云うのか目玉焼きも添えられている。



 満腹して、タクシーに乗ってホテルへと戻った。今日は渋滞は幾分ましだ。窓の外に街が流れる。

 道路の側壁も其処らのビルの壁も、様々な落書きで彩られている。雑な装飾文字もあれば芸術品と思えるもある。渾然一体となってそれらはもう街の情景に不可欠と云えそうだ。

 ビルの隙間や道路の中央帯や公園に姿を現す樹々に草花。日本のそれのように人に飼い馴らされた感じは受けず、どこか野生の匂う禍々まがまがしさにどきりとする。隙あらばまだ人に仇為あだなしてやろうとひそかに狙っているかのような禍々しさ。一雨ひとあめ来そうな、人を不安にさせる空気故だろうか。


 見上げれば上空を飛行機がよぎる。腹が鈍く光るのが近くに見えるのに、音は遥か遠くから届くようだ。


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