第29話 五日目① ~ウィーングルメ~
目覚めた体に、まだ毒が残っているような気がする。毒を
ホテルのビュッフェは素通りし、街に出てカフェを探すことにした。罰が必要なのだ。心の痛みだけでは足りない。
最初に飛び込んだカフェで、アプフェルシュトゥルーデルを
となれば甘さに関しては折り紙つきだ。ふんだんにかかった粉砂糖、さらにはホイップクリームが皿を埋め尽くしている姿も禍々しい。覚悟を決めて、ナイフを入れる。断面からシロップ漬けのリンゴがたっぷり零れ落ち、甘い匂いに鼻を
さくさくの生地に、リンゴはしっとり。舌のうえで
夕方のフライトまでは時間がある。今日はすこし足を延ばして、昨日廻れなかった名所を見て回ることにした。
此処でも移動はトラムが便利だ。プラハと同様、時間制のチケットに打刻し懐中に忍ばせておけば、その時間内は何度乗り降りしようと自由。降りる駅を正確に知らなくとも思いたったら其処で降り、気が済んだら
地下鉄とトラムを乗り継いでベルヴェデーレ宮殿へ。複数路線が交差する路上の駅で番号を確かめながら乗車すると、鉄錆が匂いそうな年代物の車輛が明るい町並みを
門を入って直ぐ目にするのは宮殿を横から望む、
ナポレオン戦争後のウィーン会議で華やかな饗宴の舞台となったこの宮殿は、今は美術館となって様々な名品が展示されている。中でも世紀末象徴派の作品群が自慢らしく、クリムトの『接吻』が目を惹く。その耽美で退廃的な作風は中欧から欧州各地へ伝染し一世を風靡したが、
外へ出て正面から宮殿の全景を望んだ。前にひろがる泉に空の青が映る。庭園の緑は今を盛りと萌えあがり、青と緑とで左右正対称の白い宮殿を
昼食はウィーンの人気ファーストフードで。街を歩いていると
トラムから見えたスタンドに寄ってみると、鉄板の上に
一皿頼むと細長いウィンナーをカットして皿に乗せ、マスタード、ケチャップと一緒に供してくれる。歯を当てると皮がぷちっと弾けて破け、肉汁が口腔へと迸る。これは堪らない。
次から次へと口に運んで、気づけばもう一皿注文していた。昼から路上でビール必至のウィンナー祭りだ。
シェーンブルン宮殿へはすこし遠出する距離だ。市内中心部がまるごと入るほどの広大な敷地に、庭園、丘陵、泉、そして大宮殿が配されている。戦禍で度々荒廃した後、ハプスブルク家唯一の女帝、マリア・テレジアの手により復興成った「
美貌に恵まれ、若くして欧州屈指の名家とその広大な領土を相続し、夫とは愛で結ばれ、十六人もの子まで
八年に及んだオーストリア継承戦争の末にハプスブルク家領の相続が認められた後も、プロイセンと七年戦い苦い和平を呑むなど帝国経営は必ずしも順風満帆とは行かなかった。
そんな女帝の心を、家族と過ごすシェーンブルン宮殿は慰めたに違いない。正面のテラスに立てば花々の彩りが遥か先まで見通せる。右手には薔薇園。薔薇のトンネルを女帝は、愛する夫のエスコートで歩んだだろう。子犬のようにじゃれつく子供たちが、或いは二人を先導し、或いは後ろから
子供たちのうち、最も有名なのはマリー・アントワネットだろう。広大な庭で屈託なく乗馬を
先に天寿を全うしていたマリア・テレジアが愛娘の酷い死を見ずに済んだのは、せめてもの救いなのかも知れない。長く生きることは、見たくないものまで見させられるということでもある。そうであっても我々は、生ある限りは歯を喰いしばって生きなければならない。
* * *
帰国便の出発時刻が近づいてきた。ホテルに戻り、チェックアウトを済ませ車に荷物を載せた処で、ダヌシュカさんが右手首の時計を見た。
「まだ時間がありますね」
そう呟いたあと、「カフェでご馳走しましょう」とつづけた。生真面目な表情は飽く迄緩まない。
彼女が案内してくれたのはカフェ・ザッハー。世界に名高いザッハトルテの本家だ。十九世紀、駆け出しの料理人だったザッハー氏が考案したチョコレートケーキは世界中の好評を博して、後には息子が開業したホテルの併設カフェで提供されるようになった。その後レシピが流出し今や日本で食することも可能だが、やはりザッハーの店で味わってこその「ザッハーのトルテ」だろう。
チョコレートケーキに、アプリコットのジャムがアクセント。たださえ濃厚なチョコレートの上にさらに、封蝋のような
生クリームならコーヒーにもたっぷり載っている。日本ではウィンナーコーヒーと呼ばれることも多い、アインシュペンナーだ。ホイップクリームとウィーンとは相即不離、切っても切れない仲らしい。
左右を
その時彼女が目を細めた。ケーキを
鋼鉄の鎧の隙間から初めて生身のダヌシュカさんを覗いたようで、覚えず赤面してしまった。スイーツは私に罰を与えるとともに、時には罪なことをする。
カフカならそんなきっかけで恋に落ちたかもしれない。恋多き男、カフカの艶聞の最たるものは、ウィーンが舞台だった。
お相手は、カフカの著作をチェコ語に翻訳したミレナ・イェセンスカー。この仕事を契機に急速に親密になった二人の恋は、熱烈な手紙の往還を経て
彼女が人妻であったことも、カフカに別の婚約者がいたことも、彼を制するには力足りなかったようだ。だが二人の理性を奪ったこの恋も、病的に孤独を求めるカフカにあっては長く続けることは叶わなかった。カフカの最晩年の伴侶となり、ウィーン郊外のサナトリウムで彼の最期を看取ったのはまた別の女性である。(多くの女性を虜にする“魔性の男”とでも呼びたくなるような魅力が彼にはあったらしい)
ミレナも、ナチスのホロコーストを生き延びることはできなかった。ドイツ降伏の一年前に、ドイツ東部の強制収容所で病気のために亡くなったと記録されている。
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