第30話 五日目② ~過去・現在・未来~
ドナウ川に沿って東の
この地の利は現在もオーストリアに生きている。第二次大戦後、オーストリアは永世中立国となった。
自ら望んでなったのではない。
第二次大戦で
だがそれを悪と断ずるのは短慮かも知れない。東西冷戦の間オーストリアは時には両陣営の緊張の調整弁となり、東欧からの亡命者の駆け込み先ともなった。国際力学と大国間の思惑故に押しつけられた永世中立は、結果的に世界の安定に寄与したと云えそうだ。それはオーストリアの国益を利することにもなったろう。
善意と理想から出た運動が世界を災厄に落とし込むこともあれば、利己的で傲慢な政策が地上に平安を齎すこともある。
その一筋縄でない不幸な一例を、同じオーストリアの上に私は見てしまう。第一次大戦後のことである。
第一次大戦の結果三つの大帝国が消滅し、代わりに幾つもの民主主義国家が生まれた。帝政から民主共和制への移行を我々は、人類社会の進歩と呼ぶべきなのだろう。
だがハプスブルク帝国の瓦解と各民族の自立、民主国家の成立が二十年後の、第一次大戦を遥かに上回る惨禍を用意したように思えてならない。
民族自決の潮流は一方でユダヤ人たちにも権利拡張の夢を与え、他方では中欧・東欧国家で中核民族のユダヤ人に対する敵意を
また副産物として、長らく雌伏していたシオニズム(ユダヤ人国家への帰還)が実現可能な目標として再認識され、やがてはナチスドイツを代表とする反ユダヤ主義の嵐の前に、生き残るための切実な目標となった。
それらの先にホロコーストがあったのだとすれば、人は、それさえも人類社会の進歩のため必要な犠牲だったと云うのだろうか。イワン・フョードロヴィチ・カラマーゾフならばきっと「どんな進歩だってそんな
そしてその犠牲は、別の形を取って今も現在進行形で続いている。
第一次大戦以前、世界のユダヤ人口は中欧・東欧・ロシアに集中していた。その数
今、同じ地にユダヤ人は二百万人を
そのイスラエルの歴史を想うと、複雑な
イスラエル建国は、ユダヤ人たちが生存を脅かされないための切実な希望だった。
旧約聖書の記述を根拠に神の約束された地がユダヤ人の手に帰するのは当然……とは流石に考えなかっただろう(と信じたい)が、自らの国家を
だが二千年ぶりの約束の地には、既に別の民が住んでいた。二千年もの間その地で営々と耕し、産み、育んできた民が。彼らの自由も民族自決も、一顧だにされなかった。代々暮らした故郷に生きる権利さえ
すこし想像力を働かせれば
同様に、二千年その地に暮らした者たちも、新しい隣人たちの窮状切迫を想像する余裕は持ち得なかった。(
想像力の欠如が、民族間の相互無理解と憎悪を増幅させていくのだと思う。とは云えその失陥は人類通有の宿痾で、彼らに石を投げる資格を持つ者は地上に一人として在るまい。
それぞれに大義があり、譲れぬ信念があり、渇望する夢があるのだろう。
だが人の世の営み、因果起結は単純明快な一本道ではなく複雑怪奇な迷宮なのであって、一筋縄でいくものではないとは
願わくはその日は、あまりに遅きに失しない前に来たらんことを。入植地で繰り返される悲劇、そこで喪われる人命の
ウィーン発の私の旅は、帰路も紛争地を避け長い
(チェコ・オーストリア編 了)
※次回からは最終章、マレーシア・シンガポール編
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