第4章 マレーシア・シンガポール

第31話 初日 ~熱帯の雨~


 朝に日本を発ってその日のゆうべにはマレーシア北部の島、ペナン島に降りたっていた。空港は送迎の人たちで混雑していて、過剰に効いた空調のなかに汗とガラムの匂いがじった。

 外は土砂降りが続く合間に落雷の音まで派手に轟き外に出るのを躊躇うほどだが、迎えに来てくれたポーリィさんは、ああこんなの、と手を振って、

「すぐ止むわ」

 と事も無げに言った。

 熱帯は来訪者を、その激しい天候で歓迎してくれているらしい。


 彼女の言葉通り、車を走らせているうち雨は小降りになってきた。だが雨のおかげか道路は大渋滞だ。二車線の筈の道路には車列が四つならんで、それでも足りぬと云うのか空いたスペースがあれば其処へ車が割りこみ後ろに別の車が続いて列は更に増えそうな勢いだ。宵闇の道路にクラクションがこだまする。


 ポーリィさんは所謂いわゆる華僑で、顔貌かおつきは我々日本人と殆ど同じだ。それでも区別がつくのはよそおいが日本人と異なるのと、それに動けば身振りにどこか南方風の特徴が感じられるためだ。だがこれも当事者同士だから判る違いで、例えば欧州人から見たらまったく同じに見えることだろう。

 英国風の愛称を名告なのるのは半島からシンガポールにかけ広がる華僑たちの多くに共通する習慣だ。それとは別に漢字三文字の典型的な中華風の名も有り、本名はそちらの方らしい。

 う云えば同じ大英帝国傘下にあった香港の人たちも英国風の名をっていた。中国本土に併呑されてしまって長いの地の人々が今もその習慣を保っているのかは知らない。私が最後に訪れてからもう十年以上、記憶の中の香港ははるか遠い。


 マレーシアに華僑は多いが無論この国に住むのは彼らだけではない。主流はマレー人ともブミプトラとも呼ばれる在来の民族で、華僑が二十パーセント強在るほか、印僑(インド系の人々)が十パーセント弱を占める。三民族が同居する多民族国家なのだ。これがマレーシアの文化を豊かにし、社会や政治経済に多様性と複雑性を生んでいる。強みにも弱みにもなるその特徴を、如何に活かし如何に超克するかがマレーシアの発展の行方を決める鍵になるだろう。

 同時にれは、やや大袈裟に云えば、世界諸民族の共存のあり方を占う試金石になり得るのかも知れない。


 市街地を抜け海岸沿いの道に車を駐めて、人々で殷賑にぎわうホーカーズスクエアに飛び込んだ。広大な屋外フードコートだ。

 雨が上がったばかりで足下はまだ其処そこいらに水溜りが残るが客たちはさして気にする風もなく、広場は活気に溢れている。


 ポーリィさんは空いたばかりの卓子テーブルを見つけるとすかさず確保し私をその場に残して屋台へ食事調達に向かった。留守番役の私は穏和おとなしく卓子に座って周囲を見廻した。華僑もマレー人も、それに印僑や稀に欧州系のかおをした人もいて客層はバラエティーに富んでいる。このような大きなフードコートはたいていハラルだ。

 ムスリムがハラルフードしか口に出来ないとは周知の通りだが、ムスリムと非ムスリムが混在するマレーシアではその区別は常に意識される。ノンハラルの店にはムスリムは決して入らない。

 これがインド人とマレー人との大きな違いだ。マレー人(ムスリム)は豚肉を食べないだけでなく、豚肉が供される店で食事をとることも出来ない。一方インド人は、自身は牛肉を食さないが、牛肉が供される店に入ることは可能だ。(しかながらインド人と会食するのにステーキハウスを択ぶのは賢明でないだろうとは思う)


 ちなみに中国人と云えば食事に禁忌はないと広く思われ、「四本足のものなら机と椅子以外は何でも食べる」とは人口に膾炙した戯談じょうだんだが、実は一部の華僑は牛肉食を忌避する。観音信仰に根ざした禁忌で、観音様の父親が牛に転生したと信じられている為らしい。なお、同様の禁忌はお隣のタイにも見られる。


 うなると複数民族が揃って食事するならば最も無難なのは鶏肉である。

 おかげで毎日大量に屠殺される鶏としては堪ったものではないかも知れぬ。とは云えものは考えようで、鶏肉にしろ鶏卵にしろ人間の食用として未曾有の大繁殖を遂げたニワトリは、種の保存・発展としてはヒトと共存共栄の道を歩んでいるとも云えよう。それは米や小麦を始めとする食用植物たちが人間の食用として各地に伝播し大地を席捲しているのと同列だろう。

 無論これとて人間中心の都合のよい発想で、一羽々々の鶏にしてみれば食用に屠られる定めに生れ落ち、狭い籠に幼年から青春期を過ごした挙句の果てに突然生を断たれるのだ。あかときの鶏鳴は無念かたない彼らの叫びなのかも知れぬ。心して食さねばなるまい。

 一方イスラム世界で食用の難をまぬかれた豚たちはし豚の頭数を表す世界地図があったとすればイスラム圏にぽっかり穴のあいた図になるだろうが、果たしてそれが不幸せかどうか――いや、止そう。これら餘りに人間臭い考えは彼らに無用のものだ。


 詮無いことを考えているうちポーリィさんが皿を両腕に抱えて戻ってきた。

 焼鳥風の串はサテー。ナッツやココナツの入った甘いタレをつける。鶏肉は端にコゲが入るほどカリカリに焼き上がっている。

 蒸し鶏と米飯のセットは一名を海南鶏飯、だが今回は香辛料の薫るマレー風味なのでナシアヤムと呼ぶのが相応しい(マレー語でナシは米、アヤムは鶏)。皿についてきた赤いタレを米飯にかけ、ひと口サイズにカットされている鶏肉と混ぜ合わせて食べる。蒸された鶏肉はジューシーだ。

 やはり此の国に於いて鶏肉で外れることはない。


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