第3話 初日② ~仕事~


 アンカラ駅にはエージェントが迎えに来ていた。


「久里さん?」

 と声をかけてくれたのは三十歳前後と思しき女性。ギリシア系の血が濃く出た、碧い瞳の美しいご婦人だ。今回の仕事は女性運が良いらしい。


 彼女(アイテンさんと名告なのった)の運転する車でホテルへ向かい、チェックインしたあとすぐ前のレストランで打ち合わせ。会話は英語だ。

 レストランは、ごく庶民的なケバブ中心の料理店。彼女はマントゥ、私はイスケンデル・ケバブを頼む。

 さっと周囲の会話に聞き耳を立てても、英語は聞こえてこない。これならば内緒の打ち合わせができそうだ。


「ワインでも飲む?」

 とアイテンさんは訊ねたが、私は断った。この後の仕事に差し支えがあっては不可いけない。

 代わりにアイランを頼むと、すずのコップに注いで、すぐ出してくれた。アイランとはヨーグルトドリンクのことで、トルコ定番の飲料だ。表面を泡立てた姿で以て自分は発酵飲料であると堂々自己主張している。日本のものと違って甘くないので、最初の一口めは驚くかも知れない。糖分の代わりに薄く塩で味付けしている。



 今夜の仕事の打ち合わせをしていると、ずはマントゥが出てきた。小さな水餃子をトマトスープに浸した料理だ。

 日本人にも深く馴染んだ餃子は中華文化圏のみに止まることなく、トルコをはじめ中東、ロシア、イタリアにまでバージョンを変えて広がりを見せる。この料理を発明したのがどの民族なのかは知らないが、こうして世界各地に伝播させた功は遊牧騎馬民族(トルコ人もその一つだった)の活動にすべきだろう。

 そのトルコバージョンであるマントゥは、上にヨーグルトがかかるのが特徴だ。湯気とともに香ってくるスパイスが鼻をくすぐる。明日の夜はマントゥにしよう。


 勿論、直ぐあとに来たイスケンデル・ケバブも美味しかった。

 生姜焼き程度のサイズにカットし重ねたドネルケバブの上に、たっぷり溶かしたバターと、やはりヨーグルトをかけて食す。かける分量はお好み次第だ。

 イスケンデル氏の発明になる料理であるというのが、この名の由来らしい。イスケンデルとはアレキサンダーをトルコ風に発音したもので、中東世界にも広がりを持つ彼の人気をあらためて思い知らされる。


 食事をえると早速仕事だと促され、慌ただしくチャイを飲み干した。

 やれやれ。余韻に浸る暇もない。



 ***



「此処で待ってればいいのね?」

 アンカラ郊外、刑務所のすぐ横に車を止めて、アイテンさんが言った。


 私は頷いて、助手席で目を瞑った。レストランを出る時に飲んだ睡眠薬が効いて、すぐに眠りに落ちていく。音のない海の奥底へと沈んでいくような、深い眠りへ。


 やがて再び私の意識は、くらい海の底から泛び上がる。だが水面みなもと思って顔を出した処は、刑務所の独房だった。白い殺風景な壁に、さやけき月の光だけが差している。

 鏡のないその部屋で、私は自らの貌と頸とを手でなぞった。身に覚えのない貌の手触り。

 ――幸か不幸か、今回も憑依に成功したようだ。



 これが、エージェントの絶賛してまない私の特殊能力だ。私は他人に憑依することができる。

 但し、条件が三つ。


1.憑依する相手は、半径一キロメートル程度の範囲内にいる人間に限る。

2.憑依する相手は、人を殺したことのある人間に限る。

3.憑依する相手の、顔と名前を知っている必要がある。


 あくまで私の経験上から導き出した条件であって、何処かにルールブックがある訳ではない。この先ルールを覆す事態が出来しゅったいするかも知れないし、新たな条件が見つかるかも知れない。

 それと、重要な条件がもう一つ。憑依した相手の肉体が死を迎えた時初めて、憑依は終わる。



 さあ、手際よく仕事を済ませてしまおう。

 殺しの標的ターゲットは、他ならぬこの、私が憑依している人物。

 私が彼のからだを駆って自殺すれば彼は魂もろとも死を迎えて、依頼者の願いは成就し、私は元の躯へ戻れる訳だ。


 刑務所内での自殺は社会にとって不都合でもあると云うのか、みだりに自殺者が出ないよう努めてはいるようだが、その気ならば如何様いかようにもできるものだ。


 今回は周囲に手頃な物が見当たらなかったので、自身の爪を剥がして、尖った部分を頸動脈に当て、タイミングをとって、深く一気に掻き切った。



  ***



 憑依から帰還する時、目覚めはいつも最悪だ。

 頭が痛い。吐き気がする。体中がふるえる。淡々と書いてはいるがその苦痛たるや――いや、くどくど愚痴を述べるのは止そう。人を死に至らめた代償として、これは甘受すべき苦悶なのだと思う。


 やがて声を出せる程度には落ち着くと、私はアイテンさんに合図して、ホテルまで送ってもらった。シャワーも浴びずに服を脱ぎ散らかしたままベッドへ倒れ込み、その後朝まで目覚めることはなかった。


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