第2話 初日① ~アナトリアの大地~
エスキシェヒル駅にもうすぐ着くと告げるアナウンスで私は目覚めた。エスキシェヒルは、イスタンブルとアンカラとを結ぶ急行列車のちょうど中間あたりに位置する。
うっかり一時間ほど眠りに落ちていたらしい。
それも無理はない。夜行フライトでイスタンブル空港に到着したのは、今朝五時前のことだった。
午前中アヤソフィヤとブルーモスクを駆け足で巡った後アジア側へ渡って、ペンディク駅でイスタンブル・アンカラ高速鉄道へ乗り込んだときには疲れがピークに達していた。
アンカラへの列車移動ならばもう一つ、アンカラ・エキスプレスと呼ばれる夜行列車を使う
せっかくの旅を飛行機であっさり飛ぶなど勿体ない。その地の空気をいっぱいに吸って。異郷の人々の息づかいを近く感じて。地形の変化や景色に温度、音や匂いを五感で捉まえながら旅したい。
……とそれらしく書いてみたが、とどのつまりは、列車の旅が好きと云うことだ。
このエスキシェヒルという街の名は「古都」という意味を持つ。悠久の歴史を持つアナトリア高原(トルコ風に云えばアナドル高原)の雰囲気をたっぷり纏っている。
ところでトルコには「〇〇シェヒル」という名の街が多いのだが、『千夜一夜物語』の語り手シェヘラザードの名は、この「シェヒル」から来ているのではなかろうかと思える。と云うのも、シェヘラザードの妹の名はドニアザード、トルコ語で「ドニャ」は「世界」を意味する。
姉は「都」で、妹は「世界」。
旅は始まったばかりだ。
* * *
イスタンブルとアンカラとを結ぶ高速鉄道は開通してから幾らも経っていない。車両は清潔で快適だ。全席指定の座席は
席に着いたとき軽く挨拶したきり私が眠り込んでしまったためそれ以上の会話もなかったが、改めて見ると美人だと気づいた。凛とした眉、大きな瞳。ウェーブのかかった濃茶の髪にはスカーフをしていない。
トルコ共和国は人口の99%がイスラム教徒だが、女性は必ずしもスカーフを着けると限らない。
これは救国の英雄にして共和国建国の父・アタテュルクの方針に由るもので、政教分離を強力に推し進めた各種改革は服装にまで及び、かつては公共の場でのスカーフ着用が禁じられることさえあった。
だが時代は
数年前にこの地を訪れた時よりスカーフ着用者が増えている気がするのは、現在の大統領がイスラム回帰を志向しているためだろう。
例えば飲酒にしても、調理用にワイン一滴垂らすことさえ許さない者から、自家内限定で酒を嗜む者、堂々と屋外で飲酒する者まで様々だ。
なにしろ、殆ど全国民がイスラム教徒であり
飲酒派の友人曰く、「神は、酒そのものを禁じたのではない。酒で人に迷惑をかけることを禁じたのだ」と。
云われてみれば、酒に呑まれて大暴れする者をトルコで見たことはない。
ここまで考えて、鞄の中に潜ませたビール缶を取り出すのは止めにした。ほんの三時間とは云え、せっかく旅の
先刻から凄まじい勢いでスマホに何やら打ち込み続ける彼女の指遣いに見惚れていると、視線に気づいたかお嬢さんは顔をこちらへ向け頬笑んだ。実に好感の持てる笑顔だ。
「あなた、アンカラまで?」
お嬢さんがゆるゆると訊ねた。外見から明らかに外国人と判る私を気遣って言葉を区切りながら話すとは気が利いているが、
ええ、と答えると、
「よかった、目を覚ましてくれて。エスキシェヒルで降りるんだったら
トルコ人は人
詐欺なり強盗なりの犯罪者かもしれない可能性を捨て切れず、実は内心ずっと警戒を解かずにいたことは、彼には決して明かせない秘密だ。胸に
世間に胸を張れない稼業の私であれば、生命財産を
ともかく、観光客の多いイスタンブルには旅行者を狙った犯罪は絶えず、その例外的な不心得者の
列車はエスキシェヒルを出て再びアンカラへ向け走りだした。
どんどん加速する。車両前方にある速度表示は時速200キロメートルを超えた。車窓の外には、目の届く限り続く畑と空。
かつてこの大地を、ヒッタイトが戦車を駆り、エジプト・ラメセス王へと嫁ぐ王女が豪奢な行列を
地域としては中東に括られることが一般的なトルコは砂漠や不毛の大地と思われるきらいがあるが、それは完全に誤解だ。
有史以来
ギター(のような楽器)を弾くのはお元気そうなお爺さん。隣りに肩を寄せて座る老婦人は頭に青いスカーフを巻いている。手で拍子をとる彼女に合わせて、向かいの席で歌っているのは息子夫婦か。膝に抱いた五歳ぐらいの幼児二人も調子を外した声をあげている。
ひとつ前の席でドラム代わりに
初対面だろうとすぐ親しく打ち解けるのも、
千年の郷愁を束ねたような音色が琴線に触れるのか、彼らは
隣のお嬢さんに目をやれば、彼女もスマホから顔を上げ体を揺らしている。やはり血は争えないようだ。
私も倣って耳を傾けた。
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