第13話 三日目① ~楽園の車窓~


 依頼を果たして私の意識が元の躯に帰還したのが昨夜十一時。ホテルで僅かな時間横になっただけで、あくる朝はまだ陽も昇らないうちからチェックアウトし空港へ向かった。目的地は南部のパラナ州だ。かねて念願の観光列車に乗りたいが為の強行軍である。未明からの移動にお付き合い戴くクリスティナさんにはまったく申し訳ない。


 観光列車は毎週末に運航されている。

 パラナの州都クリチバ市から、外港パラナグアにほど近い町モヘッチスへと、絶景の山岳地帯を縫って走る列車はゆっくり三時間余りをかけ標高差約千メートルをくだりおりる。


 空港からホテルへも寄らず直接駅へ向かうと、駐車場にはツアー客を乗せてきたらしい大型バスが幾台いくつも並び、ホームは既に乗客たちでごった返していた。ブラジル人の間でも観光列車は人気らしい。


 車輛はホームに横付けされていたが、まだ乗せては貰えない。私の乗るべき車輛は何処いずこ、とつらなる車輛を順々に見ていったが、だけ進んでも目当ての車輛番号が出てこないまま、とうとう最後尾に辿り着いてしまった。駅員に尋ねると、後から来るから待っているように、とのこと。

 行途ゆくてを見ればもう駅のホームも突き当りになってしまって、屋根の尽きた先に、真っ青な空が覗いている。


 暫時しばし待つうち、今着いている車輛にその座席の切符を持つ乗客たちが乗り込み、ディーゼル車が鈍重な音を轟かせ動き出した。我々後方車輛の乗客たちは置いてきりだ。

 茫然としていると、白い煙と共に別の車輛が向こうからやって来た。ゆったりと、堂々と、置いてき放りなどと心配した私を宥めるかのような悠揚迫らざる姿だ。


 私の車輛は最後の二十七輛目だった。後から到着した後方の数輛は特別仕様で、それぞれ観光を楽しむための趣向が凝らさられているなかでも、最後尾車輛は側壁の半ばほどが取り払われ三百六十度視界を邪魔するものとてない。風雨のはげしい日はさぞ不便だろうと思うが今日は幸い終日晴天との予報だ。


 女性乗務員が入ってきて、マイクを手に話し出した。

 各車輛に一人ずつ、専属のガイドが付くらしい。車内のルールと旅の見所などを快活に案内してくれる。まずポルトガル語、私がそれを解さないことを察すると、英語を後から足してくれた。


 歌うように節をつけて、時に身振りも交えてサービス精神たっぷりだ。長年の間に様々な人種の血が混じったらしい風貌で、なかでも黒人の血が最も濃く出ているように見える。


 紙の箱に入った朝食セットも彼女が配ってくれる。パンが二つに、チョコチップクッキーに林檎。飲み物は水にジュース、コーヒー、それにビールも選べて、飲み放題。


 それにしても先頭から私の乗る最後尾まで全二十七輛、実に長大な車輛編成である。

 兎角とこうするうち再びディーゼルの音が大きくなって、がくんと引っ張られ、動き出した。電車と異なり、無理やり地中から体を引き抜かれるような唐突な動き。


 そろそろとホームを抜ける間、ホームに居残る駅員たちが手を振ってくれる。彼らの背後うしろ、屋根の横木には一羽の木菟ミミズク。彼も私たちを見送ってくれるのだろうか。


 列車はクリチバの街をゆっくり進んだ。少しずつ中心街から外れて、左右のビルディングの背が次第に低くなっていく。景色が流れ過ぎる速度も遅い。あんまり緩くりすぎないかと思っていたら更に速度を緩めて、踏切を跨いだ処でとうとう停まった。列車が再び動く迄は当然、踏切は開かない。

 申し訳ない思いで窓から外を見た。ところが道を塞がれた車も人も焦る様子を見せず、列車の再び動き始めるのを、周りの人たちと談笑しながら待っている。此処は時間が悠然ゆったりと流れる国だ。


 再び動き始めて少時しばらく、緩慢なレール音とともに現れた貨物列車とすれ違う。我々の列車に負けず劣らずのろい歩みだ。だが延々続くかと思われた邂逅も、一本目のビールを飲み切る頃には姿が見えなくなっていた。ふと窓の外を見れば木の柵に絡んだ朝顔が淡青みず色の花を咲かせている。

 線路沿いに時折緑地が現れるのだった。そこに咲いているのは向日葵ひまわり秋桜コスモス紫陽花あじさい。季節感の狂うこと――いやそもそもとよりなかったのだ、日本と同じ季節感など。此処は遙かな異国なのである。


 さらに進むとビルディングも家も次第に姿を消して、代わりに見えて来たのは一面の緑。草を食む馬の親子が遠くに見える。土地の遣われようは実に贅沢だ。広大な牧場に、馬はまばら。


 次第に列車は山中に分け入り、ふるい軌道に導かれて気づけば我々は森の中に迷い込んでいた。

 其処は楽園の廃墟のようだった。

 絶景。手つかずの自然と、そこへ敢然と踏み込んだ人々の痕跡。たびたび川を横切り、其処らで瀧が白い水を落とす。一条ひとすじの細い瀧が数十メートルも鋭く落ちていることもあれば、瀑布と呼ぶに相応しい立派な横幅の瀧も。


 断崖に架かる鉄橋の遥か下には清流が見える。渓底たにぞこと天空の軌道とは彼岸と此岸ほどに遠く隔てられ、水の音は列車まで届かない。水底みなぞこの石が赤みがかっているのは、水に何か鉱物が混じっているためだろうか。

 放置された家。かつては駅舎だった廃墟。人の営みの遠い幻影。



 列車は木陰の合間を縫って進む。見上げれば、樹々の切れ間から眩しい太陽。芭蕉の葉が大きな掌を開いている。

 目の前にひらけるのは夢のような天上の園だ。


 夢と云うなら、日々この世で人が人を殺しているなど、それこそ夢のようだ。此処にいると、現世うつしよの罪業すべてが夢であれかしなどとおもってしまう。

 そう云う私自身が昨日ひとを一人殺したばかりなのだが、と自嘲した。うなると自らに罰を与えなければ気が済まない。舌も喉をも溶かすほどの甘い何かで――すると私の胸中を覗いたように丁度、クリスティナさんが和菓子を取り出した。


 それは途中立ち寄った店で買っていたお萩と大福。日系人の作る美味しい餅なのだと彼女は云った。日本から分かたれて異郷の地に百年、和菓子は未だに日本の薫りを忘れていない。

 やわらかな白い餅と、よそった餅とを、勧められるまま次々口の中へと抛り込んだ。遠い子供の頃の、懐かしい味がする。

 私の罪を罰するには、その餅の甘さはあまりに柔らかく、優しかった。



 列車は愈々いよいよ山中の険をるように進んだ。

 左右に度々カーブする軌道を列車は地形なりに蛇行する。壁の殆どを取り払った客車からは、前方の二十六輛が長大な体を捻りながら進むのが見える。蛇が行く――まさにその言葉が相応しい。

 長い下り坂をったりと進む車輛、床の下では鉄輪かなわきしんでいる。


 隧道トンネルを抜けると不意に視界が開けて、眼下に広々と原野が広がった。

 数十メートル下、手つかずの原野。無遠慮に踏み込む列車の足下では深い緑の上を赤や黄の蝶が翻々ひらひらと飛び交う。私が目にしているのは楽園、それとも極楽浄土か。


 時に緑の蝶と見紛うのは、落ちてくる葉。

 バナナが緑の硬い房を無数に生らせている。尻を天に向け並べて。バナナの巨大な葉は陽の光を我が物顔に浴びて、いい光沢つやだ。

 軌道の左右に次々姿を現す棕櫚しゅろ椰子やし、松、パラナ松。地を這う羊歯しだ、笹、日本でも見る様々な路傍の草花。一頭抜きんでたぜんまいが陽を求めて鎌首をもたげる。


 大樹はその幹と枝に羊歯や蔦や苔を纏っている。の一木を取ってもその身に種々の植物を養わない樹はない。

 枝の叉に飛んできた種子は宿主の与える環境下でほしいままに葉を拡げ枝を伸ばし、百千もの店子たなごたちが互いに助け合い競い合い、渾然一体と溶け合った大樹は最早一つの生態系だ。


 南米の山の奥、街とみなととの間に自然はとんだ勢威を誇っていた。

 人工物をも身中に取り込む豊かな自然――この野放図な野生の楽園は、智慧の実を食べた人間を迎え入れてくれるのだろうか。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る