第34話 三日目① ~ビュッフェ・オオトカゲ~


 ホテルの柔らかなベッドの上で目が覚め、窓を開けると外は既に明るく熱帯のっとした空気に包まれた。ベランダから見る海の青は遠くへ行くほど明るく眩い。

 寝過ごしたかと焦ったが、時計を見れば八時前。ポーリィさんとの朝食の約束まではまだ半時間ある。外にいるとじっとり額に汗が泛ぶので部屋へと戻ると、中は中で冷房が効き過ぎている。南国の人たちには、空調は寒ければ寒いほど上質のサービスと思っている節がある。


 朝からビュッフェは多国籍な光景だった。それもその筈、マレーシアは三民族が共存する国家だ。加えてペナン島は観光地で、多様な観光客や長期滞在者を呼び込む基盤が整っている。

 ず、言葉。かつてイギリスの植民地であり今も英連邦に加盟するマレーシアでは多くの国民が英語を理解する。屋台でサテーを焼く親爺おやじでさえ英語で注文を受けることができるのだ。

 言葉と文化で云えば、中華系の人々にとっても障壁は低い。マレーシア総人口の二割ほどは華僑と謂われるが、なかでもペナン島に華僑は多い。中国語しか話せなくともペナンでの生活に不便はない。

 そしてイスラム教徒が多数派であるマレーシアは、全世界のムスリムにとっても過ごしやすい旅行先であるようだ。一見刺客かと身構えてしまうような全身黒ずくめの女性を見かけることも珍しくない。興味深いのは、女性は前出の如き典型的なアラブの装束に身を包むのに、男性の方は短パンにTシャツというアメリカ人とも見紛う格好をしていることだ。彼らの生活や思考にもグローバル化の波は浸々ひたひたと押し寄せているようだが、それが女性の服装に及ぶまではまだ時間を要するらしい。


 この国際色豊かなビュッフェのなかには勿論日本人も混じっている。若い家族は仕事で駐在しているのだろう。年齢がいっている方もちらほらいて、旅行者か、或いは定年後移り住んだのかも知れない。

 中国人、韓国人、華僑やその他アジア人の中には身体的特徴だけなら日本人と然程さほど変わらない人もいるのだが、不思議と日本人でないと知れる。表情、仕草、服装……何かが違うのだ。それは彼らから見ても同様で、例えば韓国人は、同胞とそれ以外をしっかり見分ける。

 ただし我々の間では互いに見分けられても他国の人にすれば大同小異、見分けることは困難らしい。土産物屋の前ではよく国籍を尋ねられる。最近は中国人と間違えられることが多く、嘗ては「コンニチハ」と声かけられたのが今はたいてい「ニイハオ」から始まって、反応しないでいると「アンニョンハセヨ」か「コンニチハ」が続く。一抹の寂しさを感じずにれないが、これも世の趨勢だ。再び日本人が世界各地で存在感プレゼンスを高める日が来ることをねがおう。



 て、今は全力でビュッフェに立ち向かうべき時だ。客たちに負けず劣らずのバラエティ豊かな料理の数々がフロアじゅうに配されている。やはり此処でも中華は強い。蒸籠せいろで蒸された焼売に饅頭。粥。胡麻団子も外す訳にはいかない――自分への罰の為に。

 当然、カレーもある。此処マレーシアではカレーはインド人の専売特許ではない。中華風、マレー風のカレーも在る中、それでもやはり最初にとるのはインド風だ。となればタンドリーチキンも外せない。ターメリックの香ばしい薫りが朝から食欲を刺激する。

 ナシゴレンはマレー風。湯気をたてる飯粒はインディカ米で、日本の焼き飯に比べると色が濃い。上に目玉焼きが乗っているあたり、街の屋台より上品だ。

 向こうでは細巻き寿司がずらりと並び、味噌汁と中華卵スープとコーンスープの壺が仲よく続く。


 欧州の薫り漂う料理も多い。魚介類をふんだんに盛ったパエリア。目の前で注文に応じて焼いてくれるオムレツは、甘い湯気をたてている。その隣で焼かれているのはパンケーキだ。みそぎの為と、思い切ってカヤとチョコレートをたっぷり乗せた。カヤとは、ココナッツミルクを卵、砂糖、パンダンリーフと一緒に煮詰めた緑色のジャムで、マレーシアでは何処でも見かける人気の一品だ。当然甘い。が、好きな人は癖になるかもしれない。


 慥かにホテルビュッフェも悪くない。何よりポーリィさんが至福の表情になってくれたのがこの日の収穫だった。



  * * *



 今日はペナン島を離れ対岸のバタワースへ向かう。

 島から半島への移動手段には連絡橋とフェリーの二つがある。遠浅の地形なのか、橋は中央部が吊り橋になっている他は海底にどっしり根を張った橋脚に支えられている。青い空と碧の海を背負った連絡橋のフォルムは海の楽園に寝そべる女神のようで、此の世と思えぬほどに美しい。

 だが今回の移動は橋ではなくフェリーを使った。小さな船で、時間も十分そこそこの短い船旅だがかつて海峡を往来した商人、旅人、海賊に兵隊たち、そんな名も知れぬ先人たちの後塵に名を連ねられるのならば光栄だ。

 フェリーの荷台に駐めた車から外へ出ると、対岸のバタワースに巨大なクレーンが幾つも望める。東洋の真珠とたたえられるペナン島は美しさだけでなく、海上交通の要衝としてまたマレー半島への玄関として今尚その価値は高い。実はペナン港の設備の大部分はペナン島ではなく半島側に在るのだが、行政区分としては半島側のバタワースもペナン州に属するので、「ペナン港」の看板は偽りではない。


 対岸に渡ってしまうともう其処は観光地ではなく港と工場とが並ぶ工業地帯だ。実はペナン島にはビーチ沿いに優雅なリゾートホテルの並ぶエリアもあるのだが今回はパスし、マレー半島側で半日を過ごすリクエストを出したのだった。ポーリィさんはやはり勿体ない、と云いたげな目をしながらも要望に応えてくれた。


 フェリーを降りて車を走らせると、工業地帯を抜けた後は其処ら中が眩しい緑で溢れている。その緑は一様でなく、色も形も様々だ。水田が先の方までひらける隣にあるのはパーム椰子のプランテーション。それと勢を競うようにゴムのプランテーションが続く向こうには無秩序に繁茂する自然のままの林。同じ林でも整然と縦横にならぶ樹々を見れば、プランテーションは自然林と截然と区別できる。自然林と云ってもおそらく人の手が幾度となく入っているのだろうが、その都度南国の自然は人間たちからその領土を奪い返してきた。勤勉で執拗な科学工業と雄渾な自然との闘いは今後も暫く続くのだろう。蟷螂の斧になぞらえるべきは人間の方か自然の方か、或いは両雄は全く互角で、龍虎が一歩も退かず相対すと見立てるのが相応しいのかも知れない。

「農村の方を廻ってみますか?」

 考えに耽る間プランテーションに見入っていたのをどう思ったのか、ポーリィさんが提案してきた。無論、私に断る理由とてない。


 プランテーションの傍で車を降り川沿いの草っ原を少し歩いてみる。何時いつ何処に蛇が出てくるとも知れないが、現地の人々は毎日ここを歩いているのだろう。腰ほどの高さの草がゆさゆさ揺れるので何がいるかと目を凝らして確かめる。蛇だとしたら人をも呑むほどのおおきさだ。

 だがよく見ると、其処にたのはオオトカゲだった。頭から尻尾の先までは両手を広げたほどもあろうか。四本のあしで胴を支えて悠々と歩いている。だが不図ふと私と目が合って、トカゲは狼狽した様子で向きを変えると気の毒なほど慌てた様子で逃げ去った。獰猛な見た目に反して平和主義者らしい。


 少時しばらく葦原の端で幸運な邂逅の余韻に浸っていると、車に戻るようポーリィさんに促された。

 ときあたかも十三時、太陽は真上から射し、地に影は像を結ばない。


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