第23話 二日目① ~修道院・教会・城~


 ホテルで軽い朝食も提供してくれるようだが、折角なので街へ出て店をあさることにした。


 道は多くが石畳だ。何処からか旅行者の牽くスーツケースの車輪が石に当たって立てる音が、中世の香りする建物の間を抜けて届く。

 角のベーカリーからはイートインの席が路にはみ出している。のんびりパンを食べている老夫婦は住民なのか、旅行者なのか。似た店を三軒ほど通り過ぎたところで、とりわけ賑っているベーカリーに飛び込んだ。

 店内では客たちがパンを手に手に、立ったままスタンドに集う。どうやらお手軽・安価な点が人気の主因であると想像させる光景だが、味も人気の一因であろうと勝手に決めつけ注文する。注文と云ってもカウンターの向こうに置かれた品を指し簡単な英語を添えるだけだ。幸い店員には意図が通じたようで、希望通りの品を取ってくれた。

 希望の品とは、ハム・チーズ・卵・野菜が乗ったフレビーチェクと、ついでにブランボラーク。精算して立ち食いスタンドへと向かう。


 フレビーチェクは、チェコ版サンドウィッチと云えば近いだろうか。ただしサンドするのではなく、スライスしたバケット一枚の上に具を載せたもの。

 結構な大きさで、一口で片付けると云うわけにはいかない。しかも具はたっぷり載っているので注意して食べないと崩れてしまう。なかなかの食べ応えだ。プレーンのバケットのほか、大麦パンをスライスしたものもある。焼いても美味しいと思うし、頼めば焼いて貰えそうなのだが今回はそのまま食した。勿論、そのままで十分旨い。


 ブランボラークは砕いたジャガイモを固めて揚げたものだ。幾つかヴァリエーションがある中で、私が頼んだものにはブロッコリーが練り込まれていてやや苦い。塩を振りながら食べていると、相席の中年女性からタルタルソースをけて頂いた。チェコ語で話す内容は正しくは分からないものの、きっとこの方が旨いと薦めてくれているのだろう。慥かに随分食べやすくなった。しかしたら此の女性の親切心も、味を調えるスパイスになったのかも知れない。



 食後ホテルへ戻り、ロビーでダヌシュカさんと合流する。今日は一日王道の観光名所を案内して頂けるとのことで、有り難くお言葉に甘えることにしたのだ。

 最初の目的地は橋を渡った川の先、小高い丘の上だ。移動は街を縦横に走る路面電車であるトラムに乗って。チケットはダヌシュカさんが購入してくれていた。


 このチケットのシステムが特徴的だ。切符の金額設定は区間ではなく、時間制。30分から、24時間、72時間などの種類がある。時間中であれば市内のトラムも地下鉄も乗り放題だ。

 当然、乗り始めには駅で使用開始日時を打刻しなければならないのだが、それをしないで無賃乗車する不心得者も中にはることだろう。なにしろトラムに改札はなく、路上のバス停のような駅で乗客が乗り降りする際チケットを誰に示す必要もないのだ。地下鉄の入口もチケットに日時を打刻する機械が素っ気なく置いてあるだけで、既に打刻したらしい乗客は皆素通りしていく。これでは無賃乗車もやり放題というものだ。そのため頻繁に検札があるらしいのだが、結局私は滞在中一度も遭遇しなかった。

 実際のところ無賃乗車があるのかどうか、私は知らない。何れにせよ、そのリスクを除けば極めて便利で使いやすい仕組みだ。

 なお、ダヌシュカさんによると、住民はスマートフォンに専用アプリを入れてほぼ年中無休で利用できるようにしているとのこと。



 トラムを乗り継ぎ、辿り着いたのはストラホフ修道院だ。十二世紀に建てられたこの修道院の中には世界一美しいとも云われる図書館がある。残念ながら中までは入れず格子で区切られた先の図書室を覗くしかないのだが、それでもそのたたずまいは、たしかに見惚れてしまうほど美しい。

 図書室には勿体ないほどの、贅沢に天井を埋め尽くすフレスコ画。そのキリストや聖人たちの見守る下界に視線を移せば、二階分ほどの高さの書棚に無数の蔵書が収まっている。へやの木の床を踏み鳴らして歩く修道士の幻が泛んだ。数百年も前に亡くなった修道士だ。彼は何に悩み、何を解くために、の本を手にしたのだろうか。そして彼は如何なる答えを、或いは救いを得たのだろうか。


 隣の、かつて本館であったろう回廊状の建物には、修道院の蒐集品や遺物が展示されている。

 修道院なら厳粛な宗教画ばかりがならぶと想像されるかも知れないが、実態は異なる。二階に上がり、ず目に入るのは後期ゴシック風の肖像画だ。金地に浮かび上がる貌はヤン・ファン・アイクを思わせる静謐な姿で、これならば信仰を邪魔することはないだろう。

 しばらく進むとクラナッハの妖艶なユディットが現れる。此方こちらも主題は旧約聖書の挿話ではあるし、敵将の生首と共に描かれるユディットの倒錯的な美しさが修道士たちに如何なる反応を惹起したかは敢えて問うまい。

 だがさらに進むと其処にはギリシア神話の神々やミューズたちが一糸纏わぬ姿で生を謳歌している絵が次々現れる。どうやら我々は、厳格な修道士像を画一的にイメージするのを改めるべきようだ。



  * * *



 修道院を出、歩いて丘を下ると聖ミクラーシュ教会が見えてくる。その優雅な姿はプラハのバロック建築中の名品とされるに相応しい。堂内に入ると聖人像群が我々を見下ろして出迎え、その頭上ではフレスコ画がイェスと聖母の行跡をいわう。


 豪奢なパイプオルガンは、モーツァルトの手で奏でられたこともあるそうだ。ウィーンでは必ずしも相応しい評価を得ることができなかった天才を、プラハ市民はたびたび招いて歓迎した。当時も今も、プラハの街には音楽が血流のように融け込んでいて、毎夜教会や音楽堂でコンサートが開かれている。音楽家が生計を立てるのには好適の地と云えよう。


 なお、チェコ語でミクラーシュとは聖ニコラスのことで、サンタクロースのモデルともなったこの聖人はチェコでも勿論敬愛されているのだが、実は子供たちにはやや畏れられてもいるらしい。と云うのもクリスマスシーズンの聖ミクラーシュの日、ミクラーシュと天使と悪魔とがトリオで街と家々を練り歩いて良い子には天使からご褒美のお菓子を、そうでない子には悪魔から罰として炭を与えられるイベントがあるのだ。ミクラーシュの判定を兢々として待つ悪童たちの、いまれざる魂に幸いあれ。きっとんな極悪人の魂にも、そんな時期はあった筈なのだ。

 その行事を想い起こしたうえで改めて目を上げると、我々を見下ろす聖ミクラーシュ像がいかめしく見えてくるから不思議だ。



 昼食は、聖ミクラーシュ教会を出て直ぐのレストランで。

 此処で出てきたビールはブドヴァイゼル・ブドヴァル。ブドヴァイゼルは数百年前からのビールの名産地で、アメリカのビール・バドワイザーのもとにもなった。当然と云おうか、二十世紀初めに両社の間で商標権を巡る争いが起こった。結果、アメリカのバドワイザーは欧州の多くの国でその名を名乗れず、チェコのブドヴァイゼルは北米でその銘を使えない。味は、特に似てはいないと思う……が、飲み較べた訳ではないので断言はできない。


 因縁のビールのお伴の料理は、またしてもグラーシュだ。チェコ名物とは云いながら実はグラーシュはハンガリー起源とのことで、この店ではハンガリー風のものを味わえる。ハンガリーではグヤーシュと呼ぶのだそうだ。こちらのグラーシュは煮込み肉ではなくミンチが入って、ほのかにミントの味がする。白いもっちりパンのクネドリーキがここでもやはり付いてきた。



 昼食後、再びトラムを乗り継ぎ丘の頂上からプラハ城に入城した。欧州随一の広さと古さを誇るこの城は九世紀の創建以来歴代王家の居城となって、現在は大統領府が置かれている。


 門を抜けるといきなり現れる聖ヴィート大聖堂の威容が圧巻だ。正面には巨大な円形のステンドグラス、天を摩すふたつの尖塔。見事なゴシック様式の大伽藍である。十四世紀に建設が始まり、完成したのはなんと二十世紀とのこと。この巨躯が昨日、川向うの旧市街から見えていた訳だが、これなら遠く離れていてなお畏怖を感じるのも道理だ。


 中の様子にも圧倒される。広大な空間、頭上には穹窿が幾つも重なり合う天井が何處までも続き、壁には色とりどりのステンドグラス。新旧様々の見事な絵画と彫刻が惜しみなく配される中でも、ミュシャ(チェコ語の発音では「ムハ」)のステンドグラスが人気とのこと。


 大聖堂のあと聖イジー教会に入ると随分ささやかに見えてしまうが此処は城内最古の教会らしい。装飾品も少なく、素朴な造りが却って宗教心を喚起するのか座って祈りをささげる欧州系の旅行者たちの姿が目立った。


 聖イジー教会からさらに下って左に折れると「黄金の小路」に入る。元々は衛兵の住居が並んでいたというこの小路はその後一般人の住むエリアに再編され、現在はパステル調の壁がメルヘンチックな土産物屋や展示スペースに変じて、愛らしい観光コースになっている。その一部屋をカフカの妹が一時期間借りし、カフカも住んでいたのだ。


 嘗てカフカの住んでいた部屋は今は壁が青色に塗られて、カフカにちなんだ小物などのならぶ土産物屋となっている。部屋のなかはごく小さく、ベッドと机を置いたらそれだけで埋まってしまいそうなほどだ。城域内のこの狭い部屋で、カフカは労働保険事務所を退勤後明け方までの時間を執筆に勤しんでいたのだろう。


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