第38話 五日目② ~仕事・蛇~


 日本で私が仕事をすることは殆どない。その理由は、日本には死刑が制度として存在し、且つ現に執行されており、則ち死刑が有効に機能しているからだ。

 刑罰の目的が懲罰であるか、更生であるか治安維持であるかた復讐であるかは人により意見が異なるだろうが、濃淡はあるにせよ多くの人々に共有されているのは正義の実現ではなかろうか。

 そしてハンムラビ法をひもとくまでもなく、腕を斬り落とされればその代償に相手の腕も斬り落とされて初めて正義が此の世に実現された――とする者は相当数在るものだ。


 現在多くの国では廃止されている死刑制度の是非を論じるつもりは今更私にないが、死刑制度のない国の司法制度が、大切な者を喪った者たちが正義を求める心情に応えきれていない一面があることは否めない。

 その点、日本では死刑制度が実体を伴って存続している以上私が介入する理由はほぼ、ない。仮に死刑判決に至らなかったとして、仮令たとえその判決に遺族が納得いかなかったとしても、少なくとも死刑の可能性を排除せず慎重に吟味された結果が否であるならつつしんでその結論にしたがうべきだと思う。

 私が日本での仕事を原則として請けないのは、う云うことだ。


 ところで、私刑は法治国家では通常、禁じられている。沙漠の神が禁じたように。

 それは禁忌であるよりも、人々への恩沢であり、愛であったかもしれないと思う。私刑がそこなうものは刑される者のみではないからだ。その毒は刑を執り行った者をも蝕まずにおかない。

 私刑へと彼を駆った衝動が憎しみであろうと義憤であろうと、一朝正義の復讐を果たしてしまえば、甘美な達成感の先に芽を出すのは人を我が手にかけた罪悪感だ。如何に正義の確信を抱いての行為であろうと一人の人間を殺めれば、心に重石おもしを背負わずに居られない。冷たい海に沈むような暗い感情を抱え気がふさぐこともあるだろう。その重荷から人々を解放し、神や国家が肩代わりして呉れると云うのだ。

 復讐するは我にあり。天から発せられたこの言葉は、福音だと思う。


 或いはこの世には復讐を果たして一片の悔いもなし、天にじず地に畏れず、血にまみれて高らかにわらう者も在るかも知れぬ。はかり難きは人の心だ。

 だが仮令たとえ人の心がそのようであったとしても、いやそうであれば尚更、人を修羅道へといやらぬため犯罪被害者たちをして私刑から遠からめる。それが仁たる政道の要諦との考えにも一分の理があろう。


 神や国家が復讐の代理人たる聖務を放棄しつつある現代に於いて、私にその責務を負わせたいと云う者が出てくるのは、むを得ざるところかも知れない。

 今夜は仕事だ。



  * * *



 仕事前の夕食はスチームボート。これも華僑の好む料理で、マレーシアだけでなく華人のるエリアに同様の料理が幅広く見られる。鍋に種々いろいろの食材を放りこむだけの、簡単と云えばうとも云える料理だが日本の鍋と同様はずれることない鉄板メニューだ。


 仕切り板で二つに区切られたスープは、片方がっぱりすまし汁、他方が赤い激辛スープだ。色も違えば味も違うが、そのうちスープは互いに越境して混じりあってくる。終盤になれば結局ふたつの水域はほぼ同じ味に染まる。それはそれで美味しいので、ならば最初から一つでよいのでは、と思われる向きも在ろうがそれは考え違いというものだ。最初二つの味だったものが混じり合って次第に味を変えていく、そのグラデーションもろとも愉しむのがこの鍋の流儀だ。刻々と変わりゆく味は一期一会で、どの一口もがいとおしい。

 鍋の具は様々だ。鶏肉、海老、貝、餃子、揚げ湯葉、青菜にもやしに雲吞、豆腐、魚のすり身と次々抛り込む。

 これでビールの進まぬ訳がない――と云いたいところだが、仕事が後に控えているのでここは我慢する。

 シメに麺を持ってくるのは日本と同じ。太麺と細麺(ビーフン)の二種を鍋でほぐして卵を四つ割った。二種の麺がスープを絡めとる。そこに卵も加わり、スープの辛さをマイルドにしてくれる。喉の奥に流し込んだら直ぐ次が欲しくなってしまう、魔性の味だ。腹八分目で止めるためには苦行僧にもたぐうべき精神力を要する。



 食事が済めば仕事だ。

 夜は更けたが街の灯りは衰えを知らず、夜空に月の在りは何処とも知れない。

 夕方に降ったスコールのお蔭で車道までが冠水していてタイヤの水を切る音が夜の静寂しじまに割って入る。路上の水面みなもに映るライトは仄かで、見捨てられた魂の列のようだ。


 夜の景に見入っているうち我々の乗る車が刑務所の壁に横づけた。夜は更け周囲の森が真っくらな塊になっているなかに、警備の灯りを絶やさない刑務所の周辺だけが浮かび上がっている。

 睡眠薬の助けを借り私は眠りに落ちた。



 目覚めたのは二段ベッドの下の段だった。同じベッドが二つ並んで、定員四人に囚徒は今三人るらしい。事前情報通りなら上の段は空席だ。鏡はないがかおの手触りで私の意識が標的ターゲットの躯のなかにあるのだと判る。


 ときどき手や足を動かす気配から察するに、隣のベッドの囚人のねむりはまだ浅い。これは慎重を要する、と気を引きめた。頸動脈を切れば自らに致命傷を与えることはできるが、しも異変に気づかれ、呼ばれた医師に蘇生を施されれば一命を取り留めてしまうやも知れぬ。仕損じは許されない以上、慎重の上にも慎重が求められる処だ。断固として蘇生を受け付けない完全無欠な致命傷を与えねばならぬ。


 身の周りの爪や金属、薄刃状のものを探っていたところで、管のような妙な物体が窓から垂れているのに気がついた。

 窓は横長の板を数枚合わせたもので、どうしても隙間が残る。決して手抜きの安普請と云う訳ではなく、熱帯雨林の強烈な太陽光に日々抗するマレーシアでは涼をれるため理に適った、ごく一般的な構造だ。無論気密性など期待できない。おかげで虫も小動物も出入り自由だ。現に室内には蚊や蝿が飛び、壁を這うヤモリがそれらを捕食している。


 改めて窓から垂れる管を凝視すると、ずっと固まっているように見えて実は細かく蠕動している。少時しばらく無心に眺めて漸くそれが蛇だと気づいた。彼は降りるべき新天地を求めて鎌首を左右へと動かした末――私のベッドの上に狙いを定めたらしい。するすると腹を壁に辷らせ、私の足の横に降り立った。


 マレーシアで蛇を見ることは珍しくない。毒蛇もれば、人をも喰らうほどの大蛇も在る。なかでも最も恐れられているのはコブラで、実際この小さな暗殺者の手にかかる死者はマレーシアでも百人単位で在るらしい。


 今私のすぐ横を静かに進む者は、見紛いようなくそのコブラだった。地上の凡ゆる人類が忌み怖れ、なかくインド人が深く怖れるコブラだが、今このタイミングでするりとベッドに入り込んできたのは私にとり僥倖だった。

 素早く首を捕まえると、蛇は残った躯を私の両腕に絡ませ口を大きく開いて威嚇する。好戦的な姿勢で何よりだ。る気十分な鎌首を左腕に近づけると、コブラは迷うことなく噛みついた。存分に神経毒を注入するがい。役目を果たした暗殺者の首を放してやったが、彼は油断することなく私の腕に牙を立てたままにしている。念入りな仕事姿勢もむべきだろう。その仕事ぶりを証して、私の躯は次第に自由が利かなくなってきている。呼吸が苦しくなるが、同室の者たちに異変を察知されないようなるべくっとする。もはや血清は間に合わないだろう。死に至る迄は二時間前後というところか。


 プトレマイオス朝最後の女王、絶世の美女クレオパトラと同じ死因で生をえることが出来るのならば、此の男には身に余る光栄と云えるのかも知れない。尤も彼がこれを多とするかうかは私の責任の埒外にある。

 ナイルの宝石の最後の耀きがローマからの濁流に飲み込まれるように、激しい眩暈に襲われ私の意識はそこで途切れた。


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