睡蓮の池2

 木蓮と姫棋は、後宮の端にある睡蓮の池にやってきた。

 姫棋の言ったとおり、今日は十一月にしては不思議なほど暖かい。池の水面をなでる風もまるで春の風のように穏やかだった。

 木蓮は、姫棋の後について池の上に渡された九曲橋を歩く。

 この九曲橋は池の睡蓮を観賞するために取り付けられたもので、欄干はなく水面と同じくらいの高さになっていた。おかげで睡蓮の花や葉を間近で見ることができる。

「夜の蓮というのも、乙だなあ」

 前を歩く姫棋がつぶやく。

「これはハスじゃないよ。睡蓮スイレンだ」

 木蓮がそうつぶやき返すと、姫棋が後ろを振りかえった。

「え? 蓮も睡蓮も一緒でしょ?」

と不思議そうな顔で首を傾げる。

「いや、ハス睡蓮スイレンは違う花だ。ほら、この花や葉は、どれも水面ぎりぎりに浮かんでいるだろう。これは睡蓮スイレンハスだったら、水面よりもっと高く茎をのばすはずだ」

 姫棋はへえ、と嬉しそうに微笑む。そしてまた前を向いて、酒を呑みながら歩きはじめる。

「ぷはあ」

 と時折、酒を呑む合間の呼吸が前から聞こえていた。

 歩きながら酒を呑むなんて、とても名家の小姐おじょうさまだったとは思えない。しとやかさの欠片もない。木には登るし、人の足を踏んづけるし、あまつさえ呪われた冷宮に忍び込もうとする。

 およそ、女士じょせいとしての流麗さを持ち合わせていない。

 それでも。姫棋は――。

 美しいひとだと思う。

 彼女は自身の想いを、誰かの想いを絵にできる。そうやって、人の心に触れることができる。

 そんな彼女は、めまいがするほど眩く見えた。

 自分には芸術の才能がなかった。そんな自分を母は認めなかった。母は、詩も音楽もとてもよく教えてくれたけれど、自分はそれに応えられなかった。詩にしろ音楽にしろ、芸術というものが何を表しているのか、何が正解で、何が間違っているのか、理解できなかった。

 だから芸術を理解することも、人と繋がることも諦めて、心の奥底に隠したはずだったのに。

 姫棋は、彼女の絵は、遠い昔に沈めたはずの憧れを蘇らせてしまった。

 桜舞い散る屋敷で初めて彼女の絵を見た時、頭がくらくらしたのを覚えている。まるで窮屈な箱から解き放たれて、まばゆい光に目が眩むように。今まで自分が知っていた芸術とは違う。正しさも、あるべき理想も全部横殴りするような、自由。

 最初はたぶん、どうして姫棋の絵に惹かれたのか分かっていなかった。それに気づいたのが、皇子を見つけたあの夜だった。

 きっと彼女の絵に触れることで、自分もまた癒してもらっていたのだと。

 それに気づけたことが嬉しかった。


「あ! 今、虹色の鯉が跳ねた!」

 前を歩いていた姫棋が池の中を指さして叫んだ。

「虹色?」

 木蓮はその指の先を見つめたが、何も見当たらない。首を傾げる木蓮の隣で、姫棋はもどかしそうに背伸びしたり縮こまったりして鯉を探している。

「よし、捕まえにいこう」

 え? という暇もなく、姫棋はざぶざぶと池の中に入っていった。池はひざ丈くらいの深さしかなかったが、それでも十一月の池に入るなんてどうかしている。

(ああもう)

 姫棋のやつ、だいぶ酔っぱらっているようだ。

 スカートの裾をまくってはいるが、ばしゃばしゃと派手に水音をたてるものだから、すでに衣が濡れてしまっている。

「何やってるんだよ。そんなところ入って」

 と姫棋を橋に引っ張り上げようとすると、逆に腕をつかまれた。嫌な予感がした直後、木蓮も池の中に落ちていた。

 結局、二人とも全身ずぶぬれである。

「やっぱり、この時期の水は冷たいな」

 姫棋はその言葉とは裏腹に、からからと楽しそうに笑っていた。

 それにつられて、木蓮も何だか可笑しくなる。

 誰も居ない静かな池に、二人の笑い声が響いていた。

 池の水はかじかむほど冷たかったけれど、そんなことはもう、どうでもいいと思えてくる。

 自分も虹色の鯉を見てみたい。

 木蓮は立ち上がって、姫棋を引っ張り起こす。

 その夜二人は、遅くまで虹色の鯉を探した。




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