理部次官室2


(なぜ。どうやって彼女が、理部殿に?) 

 宮女は許可がなければ役所群に立ち入ることはできない。そんな許可を与えた覚えはなかった。

 なら、一体誰が許可を?

 木蓮が固まっている間に、那羲なぎが姫棋に声をかける。

「あれ? あなたのその衣装。宮女ですか?」

 その言葉に、木蓮はハッと我に返った。

 次に頭に浮かんだのは、那羲を追い出さなくては、だった。

 那羲は、木蓮が妃候補を迎えに行っていたことを知っているのだ。那羲と姫棋が関わると、何かの拍子に姫棋の素性を彼が知ってしまうかもしれない。そうなれば姫棋の正体が仮に明るみに出た時、彼も共謀罪で罰せられる可能性がある。

 姫棋を死んだことにして宮女にしたのは、言ってしまえば自分の我儘なのだ。弟子をそんなものに巻き込むわけにはいかなかった。

 だから那羲と姫棋は、極力接触させてはいけない。

 木連は、姫棋が口を開く前に、那羲の肩に手をのせる。

「那羲、彼女は私の実験に協力してもらってるんだ。忘れてたけど、今日はその実験をする約束をしていたんだった。だから君は、もう帰ろうか」

 そう言って那羲の身体をくるりと扉の方へ向け、そのまま扉の向こうへグイグイ押しやる。

「え、ちょ。師傅シーフー、実験って……」

 那羲の背中をすっかり次官室の外へ押し出すと、木蓮は、じゃあ今日のところちゃんと復習しておくように、と言って扉をしめた。

 ふう。

 扉を閉めてから、ちょっと可哀想なことをしたかなと思う。でもこれも那羲を守るためなのだ。それに那羲も、今日は全く集中できていないようだったから、ちょうど良かったのかもしれない。

 問題は、姫棋である。

 一体何をしに、役所までやってきたのだろう。

 木蓮が溜息交じりに振り返ると、さっきまですぐ後ろにいたはずの姫棋が、いなくなっていた。

(どこに行ったんだ)

 辺りを見まわし、執務机の下も覗いてみるがいない。

 木蓮は、天井からぶら下げている布をかき分けて、部屋の奥を覗く。

 すると姫棋が、窓際の小さな卓の前にしゃがみ込んで、卓の上に乗った硝子製の円柱を眺めていた。

 その円柱は無色透明の油で満たされていて、中に小さな硝子玉が浮かべてある。硝子玉の中にはそれぞれ違う色に着色した液体が入っており、一つ一つに数字の書かれた札をぶら下げてあった。

 それを、姫棋は食い入るように眺めていた。

「姫棋?」

 いつものように、絵を描いている時のように、姫棋はこちらの存在にまるで気づいていないようだった。

 ふわりと、夕暮れの風が窓から入ってくる。どこかで雨が降ったのだろうか、少し湿った秋の風だった。

 傾いた陽光が、硝子玉の色水を透かして彼女の瞳を虹色に染めている。

 その瞳は、円柱を真っ直ぐに見つめながらも、ここよりもっと、どこか遠くを見ているようにも思えた。

 彼女に言おうと思っていたことが、泡のように消えていく。

 ただ、この光景が――。

 と、ふいに姫棋が顔を上げる。硝子玉を見つめていた瞳が、今度は木蓮に向けられていた。

「木蓮。これは?」

 そう言った姫棋は、とても嬉しそうだった。未知と出逢った喜びを、その小さな体に詰め込んだみたいな笑顔。

 木蓮は自分のことを聞かれたわけでもないのに、何だか急に気恥ずかしくなって、思わず円柱に目線を移した。

「これは。気温計だよ」

木蓮は円柱に目を向けたまま答えた。

「きおんけい?」

「そう。暑いとか、寒いとかっていうのを計る道具」

「どうやって分かるの?」

「この円柱の中に入っている油は気温が上がると膨らむんだ。そうすると、油の密度が低くなって、この色水の入った硝子玉が沈むようになってる。気温が下がると逆に油の密度が高まって、硝子玉は浮くんだよ」

 と、木蓮が姫棋の方を見ると、姫棋は目を瞬かせて首を傾げていた。

「簡単に言えば、気温が変わると、この硝子玉が円柱の中を上がったり下がったして教えてくれるってこと。ほら、今だったら」

 木蓮が、円柱の中に浮かぶ、橙色の硝子玉を指さした。いくつか上方に浮かんでいる硝子玉のなかで、それは一番下にある。

「浮いてる硝子玉のうち一番下にあるのが、今の気温を示している。だから、この場合だと」

「五十六?」

「そう。この五十六というのが、現在の気温」

 ほお、と姫棋はまた気温計に目線を戻す。

「でも、これはあまり正確な値じゃないんだ。もっと正確に温度を計れるのは水銀を使ったものだけど、あれは割れたりすると危ないから」

「何で危ないの?」

水銀は猛毒なんだよ。君も、これなら知ってるんじゃないか」

 そう言って木蓮は、壁際の棚に向かう。

 棚から取りだしたのは、小さな木箱。蓋を開けると、中から赤い鉱石が姿を現した。

 姫棋はそれを見て、ああ、という顔をする。

「うん、これならわたしも知ってる。辰砂しんしゃだ。朱色の顔料に使うやつ」

「この辰砂を高温で熱すると、さっき言ってた水銀が出来るんだよ。水銀に比べれば毒性は低いけれど、辰砂にも毒はある」

 特に、辰砂から水銀をつくる過程でできる水蒸気には、有毒な気体が含まれており、その製造に関わった者が命を落とすことも少なくなかった。

 姫棋は木蓮の話を聞きながら、ふうん、と辰砂を眺めている。

「でも辰砂って、薬にもなるじゃなかった? 確か不老不死の丹になるとか……」

 各国の権力者のなかには、辰砂を不老不死の薬として服用している者もいた。古代より辰砂は、死を司りまた再生の力があると信じられてきたのである。

「確かに丹薬になるといって飲む者もいるけど、実際は毒でしかない」

「そうだったのか。猛毒なのに、不老不死の薬だと思われてるなんて皮肉だな」

「遠い西の国では、賢者の石とも呼ばれいて、こちらは不老不死ではなく金を錬成する材料として用いられているみたいだけど」

「けど?」

「本当に金ができたという話は聞いたことがないな」

 姫棋はくすりと笑った。木蓮もつられて、ふっと微笑む。

 ごーん。

 遠くで、酉の刻を報せる鐘が鳴った。

 その鐘の音に、姫棋が飛び上がる。

「あ! まずい! また門番にどやされる」

 そう叫びながら姫棋は、風のように駆けて次官室からとびだしていく。

 木蓮は唖然としながらその背中を見送った。

「どやされるほど、しょっちゅう抜け出してるのか」

 そう呟きながら辰砂の入った箱を棚に戻そうとしたとき、ふいに気温計が目に留まった。さきほどの光景が目に浮かぶ。

 木蓮は辰砂の箱を卓の上に置いて、気温計をちょっと揺らしてみた。卓に映る色鮮やかな光がきらきらとゆらめいた。

(そういや……。彼女、何の用だったんだろう)

 気温計や辰砂の話をしていたら結局、姫棋がここに来た目的も、どうやって役所に入って来たのかも聞けずじまいになってしまった。

(まあ、また今度会ったときに聞いてみればいいか)

 木蓮は辰砂の箱を手に取り、それを棚にそっとしまった。

 また、窓から風が入ってくる。

 普段なら湿っぽい風は嫌いなのに、今日はそれほど不快ではない気がした。

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