市井で油断は禁物

化粧道具屋1

 姫棋は木蓮と一緒に、宮城の外にある市場に来ていた。

 といっても買い物に来たわけではない。新しい絵の仕事が舞い込んだのだのである。

 以前、絵を買ってくれた常依依は、贔屓にしている化粧道具屋が絵描きを探しているというのを聞きつけ、わざわざ話を持ってきてくれたのだ。

 姫棋は彼女には絵を買ってもらった後、自分が後宮の宮女であることを明かしていた。

 常依依は、姫棋の身分を知ってからも態度を変えることはなく、こうやって仕事をもってきてくれたのだった。

 そして今日。さっそく常依依が紹介してくれたその化粧道具屋にやってきた。

 のだが――。

「兄さんの分からずや! あたしはお嫁に行きたくないって言ったでしょ!」

「急にどうしたんだ。前はおまえだって、陳様のことを気に入ってたじゃないか」

「気が変わったの。だからもう、この話はなかったことにして!」

 そう叫びながら若い女が、姫棋たちと入れ違いに店から飛び出していった。歳は姫棋と同じくらいだろうか。先ほどの気丈そうな台詞とは裏腹に、その顔はおっとりして楚々とした雰囲気だった。

「ああ、すみません朝から騒々しくて。もしかして常様からご紹介頂いた絵師の方ですか?」

 姫棋たちに話しかけてきたのは、人のよさそうな顔の小柄な男。この男が絵の依頼をしてきた店主であった。

「とりあえず奥で話しましょうかね。どうぞこちらへ」

 周有しゅうゆうと名乗ったこの店主は、姫棋たちを店の奥へと案内する。

 今回姫棋たちは、常依依から紹介される際、宮女や官吏であることは伏せてもらっていた。

 なので今日は姫棋はもとより木蓮も、麻の質素な衣装に身を包んでいた。店主の様子からも身分はうまく隠せているようだ。

 姫棋は木蓮とともに周有の後をついていきながら、ちらちらと辺りの様子をうかがってみた。

 先ほど通ってきた店先は、技巧を凝らした飾りつきの化粧品が数多く並べられ華やかな雰囲気だったが、店奥の居住空間に入った途端、その華やかさはすっかり消え失せた。

 柱や壁の塗装が剥がれ落ちていたり、床も痛みが目立つ。窓枠にもこんもり埃がたまっていた。

 そして案内された客間もやはり荒んでいる感が否めなかった。

 くすんだ絨毯の上に置かれた木製の円卓と椅子は、古風アンティークという形容では済ませられない代物であった。

 姫棋と木蓮が椅子に腰を落ち着けると、一旦姿を消していた周有が戻ってくる。

 下女がいないのか、店主自ら茶を淹れて来てくれたようだ。

「こんな朝早くから来ていただいて、すみませんねえ」

 そう言いながら盆を円卓の上に置いた途端、ぐらっと天板が傾き、木蓮が咄嗟に支えねば危うく熱い茶がぶちまけられるところだった。

「いやあ、失敬、失敬。なにぶん古い家具ばかりでして」

 周有は、はははと笑いながら頭をぽりぽりかく。

 商人にしては少し、いやかなり、ぽやんとした男である。

「さっそくですが今回の御依頼について伺ってもよろしいですか?」

 木蓮が茶を受け取りながら聞くと、周有は人当たりの良い微笑みをうかべた。

「はい。ではとりあえず、うちの商品を何でもいいので描いて頂けますか?」

「何でもいい?」

「ええ。身もふたもないことを言うと、手っ取り早く売り上げを上げたいのです。少々、金が要りようでして」

「急いでいらっしゃるなら、金を借りるという手もあると思いますが」

「それが、実はすでに結構な額を借りてましてね。これ以上は難しいのです」

 軽い調子で言う店主に、木蓮が怪訝な目つきになる。

 姫棋も周有の話を少し不審に思った。

 常依依は食べ物にしろ身の回りのものにしろ質の高いものをよく知っている。そんな彼女が贔屓にしている化粧道具屋が、金を借りねばならないほど経営が苦しいとはどういうことなのだろう。

 この男、そんなに商売が下手なのだろうか。

「よろしければ、金が要りような理由を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか」

 木蓮が尋ねると、周有はまたにっこり微笑んだ。

「妹の縁談がまとまりましてね。先ほど私と話していたあの小姐むすめです。彼女に嫁入り道具を買ってやりたいんですよ。嫁ぎ先はうちより大きな家ですから、妹が馬鹿にされたりしないようにと思いまして」

 姫棋は先ほど店先で聞いた、周有と妹の会話を思いだした。確か妹の方は嫁に行きたくないとか叫んでいた気がしたが、それでも兄の方は嫁入りを進める気でいるようだ。

(大丈夫なのかな)

と思いながら姫棋が茶をすすっていると、周有がさらに話を続けた。

「自分の妹をこう言うのはなんですがね、あの子は思いやりがあって本当に良い子なんです。私は早くに父の後を継いだものですから店のことで手一杯で。今まで家のことは妹に任せきりで、ろくに小姐むすめらしいこともさせてやれなかったのです。だからせめて、嫁に行った先では幸せになって欲しい」

 周有の表情から嘘はないように思えた。本当に妹のことを想ってのことなのだろう。ただやはり、本人の意向と食い違っているのが姫棋には引っかかっていた。

「それで妹のことを常様に相談したところ、姫棋さんのお話を伺いましてね。彼女の絵はきっとたくさんの人を惹きつけるから、商品の絵を描いてもらったら売り上げも伸びるだろうって」

 そこまで聞いて、木蓮が姫棋の顔をちらりと見た。たぶんこの話を受けるかどうか尋ねられているのだろう。

(もし周有と妹の意見が食い違っているとしても)

 それは彼らの問題である。自分が首を突っ込むことではない。

 今求められているのは、商品の絵を描いて、店の売り上げに貢献すること。

 姫棋は承諾の意で、木蓮に頷き返した。

 木蓮は一瞬、逡巡したような顔をしたが、すぐまた周有に向き直る。

「ご依頼、受けさせていただきましょう。ただ絵を描いたからといって、必ずしも店の売り上げが上がるとは限りません。それは承知の上、ということでよろしいですか?」

「ええ、それはもちろん。でも今は、姫棋さんが頼みの綱なんです。常様にも色々奔走していただきましたが、後宮ではうち以外にも化粧道具を下ろしている店はたくさんありますし、今すぐ客を増やすというのは難しい。ならもう市井の客を増やすしかありません」

 なけなしの金を払ってでも、この店主は姫棋にかけようというのだ。彼にそう思わせるほど、常依依が姫棋を推したということである。

 常依依の期待を裏切らないためにも良い絵を描かなくては。と姫棋は密かに気合を入れた。

「では店の商品を見させてもらってもいいですか。あと、売れ筋や、流行りの商品を教えて頂けると助かります」

「わかりました。ただ私はこれから商談がありますので、妹を呼び戻します。彼女はうちの商品を使ってますし、私と同じくらい化粧道具のこともよく知っています。彼女から説明させますね」


 姫棋と木蓮は、妹が連れ戻されてくるまでの間、店先に移動して店内の商品を見てまわった。

 後宮御用達店というだけあって、おしろい一つとってもその入れ物パッケージは芸術品のように華やかであった。金や銀を用いて蝶や梅の模様が施されていたり、螺鈿らでんが埋め込まれているものもある。

 姫棋はどちらかというと化粧品の中身より、入れ物に施された技巧の方に興味をそそられていた。

 次は紅の売り場を見てみようと思ったところで、周有が妹を連れ帰ってきた。

「お待たせしました。妹の周珉しゅうみんです。気になることがあれば、これに何でも聞いてください」

 周有に連れ戻されてきた彼の妹、周珉しゅうみんは、そのおっとりした顔を不貞腐れ気味にしかめていたが、いざ店の商品の説明をはじめると得意げな様子で各商品の特徴や使い方を教えてくれた。

 そしてなぜか、木蓮も一緒に周珉の説明を聞いていた。男が化粧道具の話なんか聞いておもしろいのだろうか、と思う姫棋であったが、木蓮は周珉の話を聞きながら興味深げにふんふんと頷いている。

 木蓮も女に化粧道具を贈ったりすることがあるのだろうか。

 そんなことを考えながら姫棋は、商品の一つを手に取ってみる。

「それは花藻はなもから採れる蜜を練り込んだ紅よ。開けてみて。良い香りがするから」

 周珉しゅうみんに促され、姫棋は蓋を開ける。すうると桃のような、爽やかな甘い香りがした。

「最初はあまり色がつかないけど、血行が良くなる生薬を含んでるから塗った後しばらくすると、唇がぷっくり潤んだ桜桃のようになるの」

 塗ってあげましょうか? という周珉に、姫棋はふるふると首を横に振る。

「わたしより、あなたが塗って下さると助かります。自分に塗っても自分じゃ見れないから」

 ということで、姫棋と周珉は奥の部屋で、化粧品の試し塗りをしてみることになった。

 その間、木蓮には持ってきた棒膠ぼうにかわを溶かしておいてもらうよう頼む。木蓮は嫌がるかと思いきや意外にもあっさり承諾し、さっそく膠を溶かす準備をはじめていた。

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