尊い夢
木蓮が音のした方を振り返ると、そこには、常依依が両手で口をおさえ体を震わせ立っていた。足元には盆と茶碗がひっくり返っている。
「于計……」
常依依はふらふらと、絵のなかにいる于敢のもとへ歩み寄る。
「ああ、于計。う、け……」
彼女はすがるように屏風の前で泣き崩れた。
木蓮は立ち上がって、床にひれ伏し号哭する常依依の背中を見つめた。
(こうなる前に)
出来ることはなかったのだろうか。二人の迎える結末は、本当にこんなものしかありえなかったのか――。
そんなことはない。きっと二人は分水嶺で選ぶ道を間違えたのだ。その時の彼らには、もうこの道しか見えていなかった。だから誤った道を突き進んでしまった。
だけど、道は他にもあったのだ。二人が手を取り合って幸せに暮らす、そんな道も。
もし常依依が彼を許せていたなら。もし官吏として落ちぶれていく于計を責めずにいてやっていたなら。
「取り返しがつかなくなる前に、なぜ彼を許してあげられなかったのですか」
木蓮は、うわ言の様に呟いた。
直後、姫棋がびっくりしたような顔をして木蓮の腕をつかみ、暗にやめろと言っていた。
でも、と木蓮は思う。
こんな結末になったのは、そもそも仕事が思うようにできず、婚姻を遅らせた于計が原因だったのかもしれない。だが、常依依がそれを許せていたら、許してあげられていたら、于計は牢に逃げ込まなくてはならないほど、追い詰められることもなかったのではないか。
許し、支えてくれる人がいたなら、于計はまた官吏として再起することもできたのでは、と思ってしまう。
人は責められた分だけ、成長を止める。
「あなたなら、于計殿の苦しみも分かってあげられたはずでしょう」
そこでやっと常依依は、すすり泣きながらもゆっくり顔を上げた。
木蓮は彼女に睨まれでもするかと思ったが、常依依の顔は怒りや憎しみというよりむしろ、ひどく怯えていた。
その顔に、ドキリとした。
(そうか、これが……)
責められた人間の、苦痛と恥と、消え入るような孤独に歪んだ顔。
常依依の見ていた、于計の
「そこまで」
姫棋が、木蓮と常依依との間に割って入った。
「わたしは彼女を問い詰めるために、この絵を描いたんじゃないですよ」
嗜めるような姫棋の視線に、木蓮は反射的に目をそらした。
しばし、息の詰まるような沈黙がおりる。
次第に頭が冷えてくると、木蓮も自分が常依依にひどいことを言ってしまったのだとようやく自覚した。
人の心に触れようとしても、やはりどうもうまくいかない。
「すみません……つい、言いすぎました」
「いえ、蔡次官のおっしゃることは間違っていません。于計を許せなかったのは私の弱さです」
そう言った常依依は少し表情を和らげると、姫棋に向き直った。
「大変見苦しいところをお見せしました。こんなに泣いたのは彼が亡くなったとき以来です。それほどに、あなたの絵に引き込まれてしまいました。また于計に会わせてくださって、ありがとう」
常依依は立ち上がって深々と姫棋に揖礼した。
常邸からの帰り道、すっかり明るくなった空の下で姫棋は眠そうにあくびをしていた。一晩中かけてあの絵を描いていたのだ。無理もない。
「よく一晩で、仕上げられたな」
木蓮はボソリと呟くように言った。
「うん? ああ、今回はその方がいいと思ったんだよ。油を使った絵は何日もかけて色を塗り重ねて描くこともあるけど、于計殿の絵は感情が薄れないうちに描き上げたかったから」
「そうか…。あの絵を見た時、一瞬本当に于計が現れたのかと思ったよ」
それを聞いた姫棋はちょっと驚いたような顔をして、そして少し、ほんの少しだけ微笑んだ。
春の終わりの爽やかな風が、彼女の細い髪を梳いていく。風になびくそれは、朝露に濡れる新芽のように輝いていた。
その光景に、木蓮はまだどこか夢の中にいるような気がした。
「それにしても、絵を買ってもらえて良かった」
姫棋が満足げに頷きながら言った。
「あれが、常衣衣の望んでたことだったんだな」
「そう、彼女は于計を責めながらも、心の中では彼を救いたいと思ってたんだよ」
木蓮は、姫棋が描いた絵を思い浮かべた。
窓の外に描かれていた白い手の人物はきっと常依依だったのだろう。暗闇にいた于計は、まさに彼女の手によって救われようとしていた。
姫棋はあえて幸せな頃の二人を描かなかったのだ。そうではなく、絶望した于計が光の下へ救われていく場面を描いた。
それが常衣衣の叶わなかった願いだったから。
彼女は自分の力で于計を救いたいと思いつつも、結果として彼を牢へと追い込み死なせてしまった。だから、せめて絵の中でだけは、自分が于計を救うという夢を見たかった。
姫棋は、常依依が望んだ
もしかするとあの絵を見て、くだらないと笑うものもいるかもしれない。そんな都合のいい
だが夢を見ることは悪いことだろうか。
常依依が理部次官室に来たときのことを思いだす。
彼女は今にも潰れてしまいそうだった。規則を破ってでも自分に助けを求めてくるほどに、彼女もまた、追いつめられていたのだ。
そんな常依依は、絵の中にいる于計と再び出会うことで救われた。
常邸から出るときに見送ってくれた常依依の顔は、後悔と寂しさを残しながらも、どこかすっきりと前を向いているような気がした。
夢はきっと、人が生きていくための希望なのだ。
たとえそれがどれほど都合のいい夢だとしても、それが明日を生きる希望になるのなら、その夢は尊い。そう言えるではないか。
木蓮は、隣を歩く眠そうな姫棋を見つめた。
――自分にもできるだろうか。
彼女のように、いつか。
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