静謐の向こうへ

「姫棋さん、もう来られてますよ」

 スープを用意すると言う常依依に断りを入れ、木蓮は絵のある応接間へ向かった。

 そっと扉を開けると、姫棋はこちらに背を向けて絵を描いていた。

「姫棋」

 返事はない。彼女は黙々と筆を動かし続けている。

 ひと段落するまで待ってやるべきかとも考えたが、早く于計の話を聞きたいかもしれない。

 木蓮は姫棋のそばまで歩みより顔を覗きこんでみる。そうしてやっと姫棋は顔を上げた。

「ああ、木蓮」

 機嫌のよさそうな声が返ってくる。

 木蓮は嶺玲に聞いた話を姫棋に話して聞かせた。戸部での于計は仕事ができず落ちぶれていったこと、そしてそんな彼を常依依が泣いて責めたことを。

 話している間、姫棋は終始興味深そうに頷いていた。

「なるほど『酔芙蓉』は常依依のことだったわけか。酔っぱらった顔じゃなくて、泣き顔とはね。まったく酔っ払いなんて噂話のせいで騙された」

 噂話など本当に当てにならないものである。しかも喩えられたのが元々酔っ払いに喩えられる酔芙蓉だったものだから、余計に于計のことだと思い込んでしまった。

 于計は、泣き腫らした常依依を酔芙蓉にたとえ、彼女に許しをこうていたのである。

「これで最高の于計の絵が描けるのか? 正直、戸部での于計は、絵になるような男ではない気がするが……」

 木蓮はやはり姫棋がこの辛い話を知りたがった理由がよく分からなかった。そんな話を聞くより、もっと二人の関係が良かった時期の話でも聞いたほうが、良い表情の于計が描けそうなものである。

「わたしは、于計が最期に常依依をどんな風に見ていたか知りたかったんだよ。それを知らずにただ楽しそうな絵を描いても、きっと常依依は満足しないから」

 そう言って姫棋はまた絵の方へ向き直った。これからいよいよ屏風に描きはじめるつもりらしい。すでに屏風には新しい紙が張られていた。

 疑問はまだ解消されていなかったが、木蓮もこれ以上の問答は無用だと感じた。きっと姫棋は自分の問いに対する答えを描いて教えてくれる。

 今はそれを待つときだ。

 木蓮は壁際の羅漢床ながいすに腰を下ろした。壁に体をもたせかけ、于計の絵、それと対峙している姫棋の後ろ姿をぼんやり眺める。

 絵を描きはじめた姫棋は、木蓮がまだこの部屋にいることなどまるで気にしていないようで、すっかり別の世界に行ってしまったようだった。

 つい先ほどまで自分と話していた彼女はもうここにはいない。

 今、彼女は常依依の目になって冥界へと赴き死者と対話している。常依依と于計の心の中を行ったり来たりしながら、彼らの望んだものを知ろうとしている。

 自分にはとても真似できそうにない、と木蓮は思った。

 木蓮は人の感情の機微というものがよく分からなかった。いやそうではない。知ろうとしてこなかったのだ。

 今までずっと、人との間に線を引きその感情に気づかぬふりをしてきた。

 それが何をもたらすのか、考えもせずに。

 那羲の声が耳に蘇る。

師傅シーフー嶺玲りょうれいさんに冷たすぎます」

 那羲の言葉を聞いた時、人として大切なものが欠けている、と言われた気がした。 

 人と向き合おうとせず、人の心を顧みることもなく、不要なもの邪魔なものだと断ち切って、自分は関係ないという顔をする。

 そんな自分は、人としての心を失った冷たい人間なのだ、と。

(そう言われても仕方ない)

 本当にそういう人間なのだから。

 嶺玲を拒絶して彼女の心を見ないようにしたのも本当は、ただ怖かっただけだ。自分のどこが好きなのか分からないなんて言い訳で、彼女の感情に触れて、そのいつ壊れるかも分からないものと向き合うことが怖かった。

 もし心を許して、それが失われた時、自分はきっとここに立っていられなくなるから。

 自分の心を守るために、慕ってくれた嶺玲を突き放した。自分には要らないものだと割り切って、顔を背けた。

 相手の気持ちなど考えてはいなかった。

 でも、そうやって逃げ回っているだけではいけなかったのだ。

 結果的にどういう答えを出すとしても、まずは彼女の心に向き合うべきだった。

 それをしないままでは、きっと永劫、人と深く繋がることはできない。不用意に他人を傷つける、子どものままだ。

(変われるだろうか)

 今からでも、こんな自分でも変わることはできるのだろうか。

 どうすればいい? どうすれば変われるだろう。

 まだ那羲の声は耳にこだましたままだ。

 木蓮はそっと目を瞑り、周囲の物音に意識を向けた。

 (今はまだ)

 この声に蓋をすることしかできない。だけど、今はこれでいい。変わるための手がかりは、近くにある気がするから。

 部屋には、かすかな衣擦れの音と、ときおり筆が筆洗の中をくゆる音だけが響いていた。

 静かな夜だった。

 新月だからだろうか、虫の声も聞こえない。

 遠くから聞こえるような、かすかな物音に耳を澄ませているうち、心地よい静謐せいひつが木蓮の心を満たしていった。



 眩しさに目を開けると、見えたのは明るい木目。それが天井だと気づくのにしばらくかかった。

 木蓮はゆっくり体を起こす。肩から掛物がするりとすべり落ちた。

(あのまま眠ってしまったのか……)

 そうだ。絵は、どうなっただろう。

 おもむろに後ろをふり返った木蓮は、眼前の光景にハッと息をのんだ。瞬間、鼓動が跳ね上がる。

 窓辺に、于計がいる。

 木蓮は瞬きしてみた。

 遅れて思考がついてくる。

 本物、ではない。当たり前だ。神であろうと死した者を蘇らせることは出来ない。

 だがそんな理を吹き飛ばすほどに、絵の中にいる于計の佇まいが、ぞっとするほどの陰影が、まるで彼の息づかいを感じられそうなほどに迫ってきたのである。

「やっと起きたか」

 ふり返ると部屋の入り口に、眠そうに目をこすりながら立っている姫棋がいた。

「気持ちよさそうに眠ってたなあ。木蓮」

 木蓮を見下ろしながら、姫棋はニヤリとその小さな唇の端をあげる。

 木蓮は返事をしようと口を開いたが、まだ声がうまく出せなかった。

 座ったまま、于計の絵に目線をもどす。

 絵のなかでは、于計が立っている部屋のその奥に、冷たく湿った暗闇がひろがっていた。

 一方、窓のむこうには眩い陽光が降り注ぎ、木々の瑞々しい葉を暖かく包んでいる。

 そんな窓のむこうから、誰かが彼の手をとろうとしている様子が描かれていた。顔は見えないが、白くて細い手が、于計を外へ連れ出そうとしているようだ。

 そして于計は、暗く重い暗闇から解き放たれ、安堵し、眩い光に溶けていくような微笑みを、その手の主に向けていた――。


 がしゃん。


 木蓮と姫棋の後ろで何かが割れる音がした。

 

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