波乱の展覧会

啼々夜草

「へっくしゅん!」

「何? どしたの姫棋。風邪ひいた?」

 姫棋が竈の火に薪を足しながらくしゃみをしていると、隣にいた鈴明りんめいが人参の皮を剥きながら姫棋の顔を覗き込んだ。

 正直なところ、朝から悪寒と頭痛がひどかった。原因は明らかだが、今日はさすがに休めなかったのだ。

 展覧会初日、尚食局のキッチンは朝から火を噴くような忙しさだった。

 昼には祝宴の儀、昼過ぎには茶会、そして夜はまた宴会が待っている。

 そんなに飲み食いして皇帝や妃嬪たちは腹がはち切れないのかと心配になるが、かといって何も出さない訳にもいかない。

 尚食局の宮女たちは、料理を作っては出し、皿を洗ってはまた作り。さらに途中横入りで注文される茶や酒の対応に、と駆けずり回っていたのである。

 そうやって姫棋たちは、自分の腹と背中がくっつきそうになるのを我慢して仕事に勤しんでいた。

「ほら、これ姫棋にもあげるわ。おねえさま方からもらってきたの」

 そう言って鈴明りんめいが姫棋の手に握らせてくれたのは、茉莉花ジャスミンの香りのする口香糖チューイングキャンデー

 茉莉花ジャスミンの香りのものは高価で、普段宮女が口にできるものではない。きっと今日出されたもののおこぼれだろう。鈴明りんめいはおねえさま方へのごますりが上手いので、よくこうやって色んなものをもらってきてくれるのだ。

(うん、確かに美味しい)

 けれど残念ながら腹の足しにはなりそうになかった。


 そしてやっと休憩に行けたのが申の刻十五時を過ぎた頃。

 姫棋はこっそり後宮を抜け出し、祭事用の宮殿へ向かう。昨日、自分の絵を運び入れた宮殿だ。

 姫棋は、宮廷の人々が自分の絵を見てどんな反応をするのか気になっていた。

 本当は少しでも横になって休んだ方が良かったのだろうが、やはりこの目で自分の絵を見る人々の顔を見ておきたかった。


 宮殿の裏口から中に入って階段を上がり、大広間をのぞいてみる。

 すると姫棋の絵が飾られている前にも幾人か人が来ていた。

 姫棋も素知らぬ顔をして客たちに混ざってみる。

 周りの人の反応に耳を澄ませていると、前の方から何やらくすくす笑う声が聞こえてきた。

 不審に思って人の間から自分の絵を覗いてみれば、そこには姫棋の知らない絵があった。

 いや、正確に言うと、姫棋が描いた蓮と一緒に、描いた覚えのない花が描かれていたのだ。

(やられた)

 何者かが姫棋の絵に悪戯書きをしたのである。

(やっぱりここでも働くものの絵は受けないか)

 自分が描いた絵に落書きされるなど絵師には最大級の侮辱ともいえるが、悲しいかな姫棋は何度も同じ目にあって来ていた。それほどに女絵師の境遇は厳しいのである。

 ただ今回は木蓮の推薦、しかも魏魏という男名義だったので、そこまで嫌がらせをされるとは思っていなかった。

 それに落書きをされたのは睡蓮の絵だ。宮女の絵の方なら分かるが、睡蓮は他にも描いている人がいるのにどうしてなのか。

 おそらく落書きしたものは、女絵師が気に入らなかったのではなく、また宮女の絵が気に入らなかったわけでもない。

(嫌な予感がする)

 姫棋が引っかかっていたのは、落書きされた花の種類であった。子どもの落書きのような下手くそな絵ではあったが、それが何の花かは容易に分かる。鈴のような形をした、真っ赤な花。

 ――啼々夜草ててやそう

 胸がざわつく。なぜよりにもよって今日、この花なのだろう。 

 今日は亡くなったあねの命日だった。それを知って自分の絵にあれを描いたのだとしたら、その者は一人しか考えられない。

 姫棋はその人物について考えを巡らせようとしたが、身体の方が限界を迎えていた。立っていることすら辛く、考えごとどころではなくなってきている。

 それに体調が悪い時に考えごとをすると良くない方向に傾きがちだ。これはもう一旦厨に帰って休んだ方が良さそうである。

 姫棋は人だかりを抜け出し、ふらふらと裏口へ向かった。何とか階段を下りて宮殿の外に出る。曲がりくねる細い裏道をおぼつかない足取りで進み、角を曲がった時、誰かにぶつかってしまった。

 すみません、と謝りながら顔を上げると、そこに立っていたのは木蓮だった。

 彼はあっと驚いた顔をしたのち、気まずそうな表情になる。木蓮はきっともう、あの絵の落書きのことを知っているのだろう。

「今、刑部に行ってきたんだ」

 そう言う木蓮に返事をしようと思ったが、声が出せなかった。

 気分が悪い。無理をしすぎたようだ。しかも朝からろくに食べていなかった。

 血がさーっと下がっていくのが分かる。耳の後ろで、自分の鼓動が鳴り響いていた。

(少し座って……)

 と思ったところで、姫棋の意識は途絶えた。

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